斉藤さん第五話

日本テレビ系。水曜ドラマ「斉藤さん」
原作:小田ゆうあ『斉藤さん』。脚本:福間正浩。音楽:池頼広。主題歌:観月ありさ「ENGAGED」。企画:東宝。第五話。演出:本間美由紀。
このドラマの主題は、先月の第一話から今宵の第五話に至るまで一貫して極めて明快。云うまでもない。子を持つ親は空気読まずに子を守れ!というのがこれまでの物語を貫いてきた主題に他ならない。
親同士の人間関係を平安に保つことばかり気にして「空気を読んで」無難に振る舞って、それで却って子に徒に負担をかけてしまっては本末転倒。吾が子を守り、健全に育てるためには時には闘うことも必要であり、波風立てることを恐れていてはならぬ。…というのがこの物語の主人公、「斉藤さん」こと斉藤全子(観月ありさ)が、第一話以来、一貫して主張してきたことであり、その姿勢に狂いはない。
もちろん正義の説を真直ぐに主張することが常に正義の最善の手段であるとは限らない。むしろ「空気を読んで」穏便に済ませることが長期的には最も効果的に正義を貫く道であるという場合もないとは云えない。だが、そうした処世術を伝授することは多分このドラマの目的には含まれない。少なくとも今宵までの五話を見る限り、あくまでも「空気読まずに子を守る」道を貫いてゆこうとすることの、様々なヴァリエイション、あるいは諸段階の進展を真直ぐに描くことのみを貫いているのだ。
小倉奈美(北川弘美)の子、佳也(坂井和久)が真野尊(平野心暖)の乱暴な接触によって日々傷め付けられ、アザまで作っていた件で、斉藤全子は「親友」の真野若葉(ミムラ)に事情を説明して解決を求め、怒り、喧嘩をした。そのあと小倉奈美は斉藤全子との会話の中で、もとよりそうした斉藤と真野の喧嘩別れのような事態に至ることを恐れていたことを述べ、無用の衝突を顧みず己の思いを明らかにできる程には己が強くはないことを訴え、そして三上りつ子(高島礼子)率いる有閑主婦連と一緒に過ごしているときはとても気が楽であると云った。
この最後の告白は、少々意外ではあるが、現状の分析としては、大いに首肯できる意見でもあり得る。あの有閑主婦連の茶会や食事会では、不在の者の悪口は云いたい放題であっても、眼前の者の悪口を本気で云うことはないから、あれに出席し続ける限り傷付けられることはないし、また会の席上、真剣に意見を闘わせて互いを傷付け合うような振る舞いは自ずから暗黙裡に禁じられ、云わば「はしたない」こととして忌避されているのか、あくまでも穏便に皆で「空気」を読み合い、相互に腹を探り合って振る舞うことを求められている。そうしておけば何ら問題は生じない。要するに己を決して傷付けることがない。
ただし傷付かない代わりに、無茶な要求にも耐えなければならない。そこで反抗すれば「空気」を悪くして皆を傷付けてしまうが、一人で忍耐を引き受けておけば誰も傷付けないし、己が傷付けられることも避けられる。もちろん無茶な要求をする側も、相手が反抗しないことを予め知っている。
意外なことに、有閑主婦連のあの優雅な茶会や食事会は、他人に傷付けられることを恐れて、自己の内部に閉じこもっていたい人々の集会なのだ。「野ブタ。をプロデュース」で云えば桐谷修二、「仮面ライダー響鬼」で云えば桐矢京介の集団なのだと形容してもよいだろうか。しかし桐谷修二や桐矢京介には無二の友と師がいた。三上りつ子には誰がいるだろうか。
真野尊の乱暴に関しては、母の真野若葉が三上りつ子に勧められて通わせ始めた塾での苦境が影響を及ぼしていたわけだが、それにしても、あの塾の姿勢はどうなのだろうか。美しい言葉、美しい振る舞い方を教授するのは結構なことだが、出来のよくない子に対する罵倒がどうして許されるのか。悪口は美しい言葉、軽蔑は美しい振る舞いであるとでも云うのか。
そもそも予て疑問に感じていたことは、あの種の、幼時からのエリート教育というものが実際にどの程度エリート養成に成功しているのか?という点だ。幼時に形式主義的な(紳士的な!)振る舞い方を躾けられた人が長じてのち犯罪(性犯罪とか)に走ってはいないかと危惧せざるを得ない。
ともあれ、スポーツクラブのイケメンなインストラクター泉温之(弓削智久)の事実上カミングアウト事件とか真野透(佐々木蔵之介)の時代劇口調の披露とか、真野家における(現今の中国産冷凍餃子騒動への対処法を示すかのような)餃子の手作りとか、一話を埋める笑える要素の多さと結末の明るさが問題提起の厳しさを絶えず和らげているのも素晴らしい。