あしたの、喜多善男第八話

フジテレビ系(関西テレビ)。「あしたの、喜多善男〜世界一不運な男の、奇跡の11日間〜」。
原案:島田雅彦『自由死刑』。脚本:飯田譲治。音楽:小曽根真。主題歌:山崎まさよし「真夜中のBoon Boon」。第八話。演出:日比野朗。
かつて喜多善男(小日向文世)には五億五千万円もの保険が掛けられていた。この事実を受けて杉本マサル(生瀬勝久)は、相棒の与田良一(丸山智己)と吾等視聴者を相手に鮮やかな推理を語った。それは驚くべき内容だった。与田が捜索の末にどこからか入手してきた映像に見る心理学者としての往年の三波貴男(今井雅之)の論によると、不幸な人間の内面のネガティヴな要素を集めてネガティヴ人格を形成した上で、その人格を殺害してしまえば、その人間は一切の不幸から脱することができるはずであると云う。だが、そうであれば逆に、このネガティヴ人格にその人間を支配させれば自ずから死を選択するよう仕向けることができるはずではないか?というのが杉本の推理だったのだ。これが真実であれば驚くべく恐るべき完全犯罪ではないか。でも心理についての言明を実証することは常に困難を伴う。杉本は立証できるのだろうか。
もし三波貴男が喜多善男の内面にネガティヴ人格=「ネガティヴ善男」を形成し善男の殺害を企てたのだとしても、その企てが成功しつつあるとは、とても思えない。なにしろ三波の事故死から既に十一年間を経ている。効き目の表れが余りにも遅い。それに「ネガティヴ善男」(小日向文世一人二役)の言動は揺らいでいる。一貫性がない。喜多善男の内面の、このところの変化の反映とも云えるだろうが、それは非ネガティヴな形に単純化されてしまった現在の彼の精神にも今なお陰影が残っていたことを物語っていよう。
同時に、「ネガティヴ善男」が、喜多善男の内面のネガティヴな要素を結集してもなお完全ネガティヴ人格になり得なかったことも考えてみたくなる。鷲巣みずほ(小西真奈美)が喜多善男について「よい人過ぎた」と形容したのはそのような意味ではなかったか?と。
鷲巣みずほが喜多善男を抱きしめたとき、その背後に現れた「ネガティヴ善男」は喜多善男に向かい、鷲巣みずほを指差して何かを気付かせようとしていた。鷲巣みずほの心地よい嘘に騙されることで気分よく世を去ろうとしている喜多善男の、邪魔をしようとしたのだろうか。だが、それは反面、真相を知りたいという喜多善男のもう一つの願望の手助けにもなる。喜多善男が明暗に富んでいれば「ネガティヴ善男」は一貫性を失うほかない。
宵町しのぶ(吉高由里子)が喜多善男のことを「許さない」と云っていたのは、「死ぬことを許さない」の意、延いては自分の前からいなくなることを許さないの意だったらしい。本気で愛してしまっていたのだ。それにしても宵町しのぶを二千万円で買い取ることで身も心も支配したはずの「小指噛めオジサン」こと館道(平泉成)は、生来の「ドM」体質のゆえか、或いはむしろもっと純粋に愛のゆえとでも云うべきか、今や身も心も宵町しのぶに支配されてしまっている。支配と被支配の関係は容易に逆転し得るのだ。
矢代平太(松田龍平)は、喜多善男の自ら死ぬ自由=誰にも殺されない権利を、最大限に尊重する決意を固めている。長谷川リカ(栗山千明)が喜多善男の背後に忍び寄り、隠し持っていた刃物で殺害しようと企てた瞬間、喜多善男の前に(従って喜多善男の背後の長谷川リカの前に)矢代平太は現れてその犯行の邪魔をした。喜多善男の自由を守るためでもあるが、もちろん同時に長谷川リカの心を苦しませないためでもある。