NHKみんなでニホンGO-普通に問題

夜十時からのNHK総合「みんなでニホンGO!」の第三回。
近年、若者の間で「普通」という語が極めて高い価値を表現するための語と化していることが話題となった。
議論のための主な材料として、昭和から平成にかけて流行した歌の歌詞に見る「普通」の語を分析した学術研究の結果を紹介していた。それによると、好景気の時期には普通でしかないことが馬鹿にされていたのが、不景気の時期に至るや、普通であることが多くの人々によって望まれる状態と化したことが明らかになったらしいのだ。なるほど極めて価値ある研究結果であるには違いない。常識的に「普通に」考えただけでも容易に予想できたような新鮮味のない結論ではあるが、常識的な見解を精密に検証するのが研究者の使命に他ならないのだ。
この結論に関連して経済評論家の森永卓郎は、一九九七年を機に日本経済がデフレイションに突入し、国民間の貧富の格差が大きく拡がったことを述べた上で、それまでは多くの人々が当たり前のものとして享受してきた「普通」であるという状態が、それ以降は、多くの人々にとっては手の届かない高みと化したことを論じたが、なるほど、これも容易に肯ける。
だが、言葉遣いとしての妥当性を考える場合、街中の或る若者が番組のインタヴュウに応えて云った「普通に良いことは皆にとって良いこと」という言説が、なかなか哲学的な理解の仕方を示してもいて、大変に興味深い。価値観の多様化ということが云われて久しいが、共有できる価値観を見失いつつある中でもなお普遍妥当的に価値があると感じられるものがあるとすれば、それは確かに極めて価値が高いに相違ない。古来、哲学者たちは普遍妥当的な真理性を追求してきたのではなかったか。
もう一つ、哲学史的に興味深そうな「普通」観があった。近年の「普通」概念の例として番組中に取り上げられたパフュームの歌詞。「普通」は「真中」ではなく「理想」であるといった意味のことが歌われていたのだが、この意味における「普通」というのは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』等において論じた所謂「中庸」の徳の概念に近い。なぜならアリストテレスの「中庸」の徳とは、極端な状態からは無難に距離を置いただけの両極間の中央のことを云うのではなく、両極を併せ呑んだ上での均衡のことを云うのだからだ。