旅行記一宝塚清荒神清澄寺の鉄斎美術館中国憧憬展と史料館名優余技展

旅行記一。
朝、早めに起きて暫時ゆっくり過ごしてから、九時半頃に外出し、タクシーで松山空港へ急行。十時半に松山空港を発って、小型機で大いに揺れたが、一時間後に伊丹空港へ到着。空港にある中華料理店の海鮮ヤキソバで昼食。モノレールで蛍池駅へ移動し、阪急宝塚線へ乗り換えて清荒神駅へ向かった。しかるに乗ったのは雲雀丘花屋敷駅行の電車だったので、池田駅で降りて改めて宝塚駅行の電車へ乗り換え、清荒神駅へ着いたのは十二時四十分頃だったろう。参拝客で賑わう参道を歩きながら「山は蓬莱に似て人は仙に似たり」の気分を味わい、山門をくぐり、諸仏諸神へ拝礼し祈願してから、昼一時半頃、聖光殿の鉄斎美術館へ入り、開催中の展覧会「鉄斎-中国憧憬」の前期展を観照。
今回も傑作、力作ばかりが並んで壮観だったが、私的に特に心惹かれるものがあったのは例えば三十歳代の作《蔬菓図》絹本着色掛幅。野菜や果物の姿を、濃厚でありながら清潔な色彩で描いている。明治四十五年、七十七歳の作《荘子八千椿図》絹本着色掛幅は、薄い灰色のような青の山と山道に、緑色の樹々が映えながら調和して、涼しげな透明感のある山水が作られている。明治二十六年、五十八歳の名作《ひん風詩意図》絹本着色掛幅四幅対(「ひん」は『詩経』に出てくる難しい漢字で、表示できない恐れがあるので平仮名で記しておく)は四幅の画に、理想郷で自給自足の生活を営んでいる民を四季の彩とともに描いている。春景は今なお寒そうで、一家はのんびり稲を植え、夏景では田圃が瑞々しい青に染まり、家では婦人が機織、子は勉強をしている。その田圃が豊作で紅く染まった秋景では家族が総出で稲を刈り、冬には、屋根を葺き替えて寒さに耐える準備をしている。この上なく平和な光景が、霊妙な山の間にある際限なく広く拡がる田園を舞台に繰り広げられ、構図も変化に富んでいる。
従来、鉄斎について晩期に至って真の芸術を生み出した等と尤もらしく評価し論ずる著名な人々があったが、そのように云う人々は一体何を見ているのだろうか?と疑わざるを得ない。確かに晩期の作品群は他のどの近代芸術家をも圧倒する程だが、若かった頃の作品群も、江戸時代の文人画の巨匠たちと比較してやはり一流ではないかと思える。鉄斎が菅原白龍のために書いた「南宗正派時流を圧す」の詩句は鉄斎にこそ最も相応しい。
夕方四時頃に聖光殿を出て、龍王瀧にも拝礼。既に四時十五分頃だったが、池の脇にある史料館で開催中の第十一回企画展「名優の余技-芸と清荒神」を鑑賞。清荒神を崇敬し鉄斎に傾倒した戦前の名優、井上正夫の書画は流石に素晴らしかった。歌舞伎座における長唄「ゑがく鉄斎」公演で七代松本幸四郎が鉄斎を演じたときの写真も展示されていたが、なるほど、顔だけ見れば当代の九代松本幸四郎と瓜二つだが、儒学者の衣を着た七代松本幸四郎は鉄斎その人に見えたに相違ないと思える。九代松本幸四郎が描いた兎の絵もあったが、驚くべく上手い。上手さにおいて抜きん出ていたのは、もはや画家の作としか思えない十五代市村羽左衛門の花鳥図だが、初代水谷八重子を含め、どの役者の書画もそれぞれ見事で、一流の役者は文人書画家でもあり得るのだろうか?と敬服するばかりだった。
夕方四時四十分頃、山門を出たところにある昭和十四年建立の井上正夫の献燈の碑を見てから参道を下った。道中、黒猫や三毛猫の群がいるのを眺めた。一匹だけ黒猫が何れの群にも属していなかったが、美しいはずの黒い毛並が少し乱れているように見えて、何だか妙に気になった。山道を降りて商店街を抜けて清荒神駅へ着いたのは五時五分頃。大型コインロッカーに預けてあった荷物を取り出し、阪急電車清荒神駅から梅田駅へ。同じ駅から乗車した宝塚歌劇団の男役風の若い人は、清荒神清澄寺に参拝した本物の男役か、それともファンの人だろうか。駅から直ぐにホテルへ入り、宿泊室に入ったのは六時の少し前。外出して夕食を摂って明日の朝食を買ってきて漸く宿泊室内で落ち着いているところ。