高校生レストラン第二話

日本テレビ系。土曜ドラマ高校生レストラン」第二話。
物語が動き始めて面白くなってきたが、もちろん、物語の骨格をなす三つの立場の対立は未だ全く解消してはいない。(1)高校生レストランだろうと何だろうと料理店を名乗る以上は確りした料理店にしなければならぬと考える本物の料理人の村木新吾(松岡昌宏)と、(2)高校生レストランを「まちおこし」の拠点として盛り上げたいと考える相河町役場の人々、特に観光課長の戸倉正也(金田明夫)と、(3)教育には競争は無益であるのみならず有害であり、ゆえに一般社会の競争性に生徒を巻き込んでしまうような高校生レストラン運営それ自体に断固反対せざるを得ないと主張する三重県立相可高等学校の人々、特に教諭の吉崎文香(板谷由夏)。
とはいえ、この三項の内、村木新吾と戸倉正也との間の対立は、今の時点で見る限り、実は必ずしも深刻ではない。なぜなら戸倉正也も、高校生レストランという観光施設が商売として成功するためには供する料理が本物でなければならぬと考える点で、村木新吾とは一致し得るからだ。
厄介なのは学校教諭の吉崎文香との対立だ。教育機関には教育機関の役割があり、それは商業によって害されてはならぬという考えは、一般論としては正しい。だが、教育に競争原理は無益であり有害であるという主張については、もっと正確に考える必要があるとしか云いようがない。確かに学校の運営が市場原理によって左右されることには問題があるが、教育それ自体には競争の要素は不可欠であるし、教育の中身においては市場原理や競争社会の厳しさを教えておかなければならないはずだ。もちろん教育においては競争に負けた者を破綻させ滅亡させて淘汰するわけではなく、別の形で教育し、向上を促すべきであるから、その意味では確かに、教育における競争は市場原理とは異質なものだろう。でも、競争はあるのだ。
学校は、子どもたちに、厳しい競争社会へ打って出てゆくための準備をさせる場所でなければならない。この問題は二〇〇五年の土曜ドラマ女王の教室」で提起されていた。「女王の教室」で見落とせない点の一つは、子どもたちに競争をさせて向上を促すことができる教師とは、圧倒的な実力、真の知識と技術を具えた教師であると考えられていた点だろう。
真に充実した教育が実現するためには、教師に求められるのは教育それ自体の小手先の手法の類ではなく、教育の中身となる知識や技術において本物を具えることである…という主張には説得力がある。学校の荒廃の問題においても日本の遥か先を進んでいたアメリカの教育問題について論ずる中で哲学者ハンナ・アーレントが半世紀も前にそのように提起していたのだ。健全な教育が行われるためには教師には「権威」が不可欠だが、権威の源泉は教師としての見識、学識、技術、そして情熱において圧倒的に本物であること以外にはあり得ない。教師の採用試験に合格できたから「偉い」のだ!とか思っていたら大間違いだ。
その意味では実は教師にこそ競争が必要だ。教師は競い合うように研究をして論文を書き、あるいはスポーツ競技に出場し、あるいは芸術作品を発表しなければならない。本物の実力を持たない教師の云うことなんか、誰が聴くものか。
高校生レストランに本物の料理人が来て、本物の料理の技と心を教授する。一体これ程にも本物の教育があるだろうか。
村木新吾に対する相河町役場の岸野宏(伊藤英明)の期待は正しいし、村木新吾に「本物の匂い」を嗅ぎ取った坂本陽介(神木隆之介)の態度は向上心ある若者の正直な言動だ。
私的な思い出を書くと、高校時代に美術の授業と課外活動の美術部で大いに学恩ある美術の教諭は、画家としても大いに活動しておられ、実際、その絵の迫力には何時も圧倒されていたが、卒業後、郷里から遠く離れた大学に入り、美術史学の教授の一人だった著名な美術評論家先生との会話の中で高校時代のその教諭の名を出したところ、その名を御存知で即座にその画風を語られたので驚いた。そして誇らしく思った。美術教師が本物の美術家であるということ以上に、生徒たちを向上させる美術教育はない。もちろん他のどの教科でも同じことだ。