旅行記/清荒神清澄寺鉄斎美術館/三津浜漁市図と富士山図屏風

旅行記。
昨夜から一睡もせず今朝四時に出立。五時七分にJR松山駅を発って岡山駅を経由して新大阪駅へ着いたのは八時四十八分。大阪駅へ移動し、連絡橋を渡って阪急電車の梅田駅へ。駅の構内へ入ったところに京都国立近代美術館の山口華楊展の横長の看板があり、券売機の前には柱のような形状の山口華楊展の看板があった。阪急電車清荒神駅へ着いたのは十時十分頃。商店街を抜けて鳥居をくぐったところで空腹を感じたので引き返し、鳥居の前にある摂州御菓子処泉寿庵で温かいキンツバを購入して食べながら参道を登り、十時四十分頃、真言三宝宗総本山、清荒神清澄寺へ到着。無料休憩所の御茶で休憩したのち、諸仏諸神へ参拝。そして目的地の鉄斎美術館へ入館した。
鉄斎美術館では今月二十五日までの間、「鉄斎の旅-富士山図屏風と桜巷堂・柴田松園-」と題する展覧会を開催している。
題名にある通り、清荒神清澄寺蔵の、富岡鉄斎の名品中の名品《富士山図屏風》六曲一双が出品されているのがこの展覧会の一番の見所だが、これに加えて《華之世界図》や《三老登嶽図》、《筑波山真景図》、《日本絵図》等の名品とともに、伊予国の松山の三津浜の朝市を描いた傑作《三津浜漁市図》も出品されていることがチラシの裏面によって明らかで、ゆえに何としても見に来なければならないと感じていた。ゆえに日帰りで訪問した次第。
明治八年、四十歳の作品、紙本淡彩《三津浜漁市図》は、鉄斎が伊予国松山(愛媛県松山市)へ滞在し、京都へ帰る前、本州と四国とを繋ぐ港町だった三津浜の、石崎家(石崎汽船)の抱山枕海楼へ宿泊した際に、窓の外に見た魚市場(所謂「三津の朝市」)の活気に感銘を受けて、その印象を描いたもの。
三津浜の朝市の様子は、実は田能村竹田の《三津浜図》(出光美術館蔵)にも描かれているが、鉄斎は三津浜の風景よりも朝市の活気の描写に集中している。大勢の漁夫と、鮮魚を需める男女や子供、売買される魚や蛸、それらを見る猫等の様子が、実に楽しげ。「山は樵るべく水は漁るべし。大夫招けども車に登らず」。
今回の展覧会には《三津浜漁市図》だけではなく、道後温泉を描いた絵も出品されている。五十歳代の作、紙本淡彩《伊予温泉行幸図》。山部赤人が伊予の道後温泉へ赴いた際、かつて斉明天皇額田王等とともに伊予の熟田津へ行幸したことを踏まえて和歌を詠んだことを表現している。
明治三十一年、六十三歳の作品、紙本着色《富士山図》六曲屏風一双を久し振りに見て、その彩色の鮮やかさと濃さにあらためて驚嘆した。絵具の物質性を観者に突き付ける現代美術のようでさえある。
右隻の富士山遠望図では、濃厚な青い森の中から颯爽と立ち上がって、ゆるやかな曲線を描きながら天空へ向けて高く凛々しく伸び上がるかのような富士山の端正な姿を、その形姿をなぞるような線を重ねることで流麗に強調しているが、これに対して左隻の「富士山頂全図」では、巨大な溶岩の塊が無数に重なり合うようにして作り出す不気味なまでの火口の形姿を、それらの塊の一つ一つの立体感を墨線と彩色で表現して強調することによって、まるで岩山が隆起して流動して、ひしめき合うようにして生動しているように感じさせる。
この大作と一緒に見てさらに楽しめるのが明治十七年、四十九歳の絹本淡彩《池大雅高芙蓉韓大年遊岳図》と、明治三十四年、六十六歳の絹本着色《三老登嶽図》。池大雅は二人の友と一緒に幾度も何箇所も登山を楽しんだ。鉄斎のこれら二幅と《富士山図》六曲屏風一双は何れも池大雅の登山を主題にしたもの。三点中で六曲屏風一双の《富士山図》の壮大と濃厚と迫力が余りにも観者を圧倒するが、《三老登嶽図》は透明感ある墨色の上に透明感ある彩色を施して、実に清らか。
七十歳代の紙本淡彩《耶馬溪図》は、鉄斎の墨画には珍しく実に端正で、しかし威厳に満ちた傑作。四十歳代の紙本淡彩《筑波山真景図》は、細かな墨線を無数に重ねて積み上げてゆくようにした中に施された薄い彩色が、墨色の合間の余白によって濃厚に引き立って、鈍く輝いて実に妖しげ。
明治九年、四十一歳の紙本淡彩《日本絵図》は、幕末明治初期の、諸外国からの侵略の危機を感じて国事に奔走していた志士としての鉄斎の国防への想いを、地図という形で表現した名作。畿内が広大になっていて妙な形の地図になっているのは、彼自身の郷土や史跡や名所への愛をよく物語って味わい深い。
昼三時頃に鉄斎美術館を出て、無料休憩所で御茶を飲んだあと、参道を降りた。途上には猫を見たが、普段は大勢の猫を見ることができるのに、今日は寒いからか二匹しか見かけなかった。清荒神駅から阪急電車で梅田駅へ戻り、連絡橋を渡って夕方四時半頃にJR大阪駅へ行き、夕方四時半頃に大阪駅を発って新大阪駅へ。新大阪駅を発ったのは五時二十九分で、岡山駅を経由して、松山駅へ着いたのは夜九時二十九分。伊予鉄道の電車で道後温泉へ戻った。今宵は流石に疲れているので中川大志日記を閲覧するのは明日。