今宵は聲の形を三度目

夜七時前に職場を出て、徒歩で衣山へ。シネマサンシャイン衣山で夜八時から映画「聲の形」を鑑賞することにした。券を買ったあと三十分間の余裕があったのでコンヴィニエンス店でオニギリを購入。そういえばオニギリは「君の名は。」ではオムスビと表現されよう。食べ終えてから映画館へ戻り、珈琲を買って入場。観終えたのは夜十時。当然、ロビーは消灯されていたが、「君の名は。」の方は上映中だったろう。
しかし嬉しいことに、上映スケジュール表を確認したところ、土曜の夜にはさらに遅い時刻まで「君の名は。」と「聲の形」が上映される模様。ということは、土曜の夜であれば仕事のあとにここに来ても余裕で二つ立て続けに鑑賞できるのか。検討しておこう。
それにしても、「聲の形」には原作があり、かなり長編の物語であるようで、それを全く読んだことのない状態で映画のみを観ることがどれだけ勿体ないことであるのかを今のところ判断できない。しかし取り敢えず原作を知らず映画だけを観ていても充分に楽しめていることは断言できる。そして物語の凄さには観る度に驚嘆する。
この一時間五十分間程度の物語の中では一貫してコミュニケイションの難しさという主題が様々な形で繰り返し描かれているが、その核に西宮硝子という人物を据えたのは、主題を象徴させると同時に微妙に隠してもいて、そこに広がりと深みがある。なぜならコミュニケイションを難しくしている根本の原因は「聞こえない」ことではないから。聞こえなくとも聞く方法が色々ある反面、聞こえていても聞こえていないに等しい事態は現実の生活においても少なくない。
実際、石田将也は、虐める側から虐められる側へ反転したとき周囲の皆が何を云い出しているのか理解できていなかったし、学校内で孤立して以降は、自ら耳を塞ぎ、目を伏せて、聴くことも見ることも止めてしまった。五年間も続いたそのような状態から石田将也を解放し得たのは、本来コミュニケイションの困難を最も抱えているはずの西宮硝子だった。もちろんコミュニケイションの難しさが消えるわけではなく、むしろ難しさを受け容れることが唯一の解放であるということだろう。西宮硝子だからこそ、石田将也に(そして恐らく映画を観る者にも)それを教えることができた。
もう一人、「永束くん」という重要な友が登場するが、この陽気に振る舞ってみせる永束くんも実は学校では孤立していて、石田将也のほかには友を持たなかったところに面白さがある。コミュニケイションの苦手な人々が真剣にコミュニケイションを図っているのに対し、コミュニケイションをよくするはずの人々(所謂「コミュ力」に富んだ人々)がコミュニケイションを蔑ろにしているようにさえ見えてくる。