新海誠監督作品=言の葉の庭

夜、新海誠監督の作品「言の葉の庭」をブルーレイディスクで鑑賞。二〇一三年に劇場公開された作品。
物語も良いが、風景の美には最初から最後まで圧倒される。しかも、その美は物語の意味をさえ担っている。
一般には、デビュー作「ほしのこえ」で鮮明に提起された新海誠の個性が、「雲の向こう、約束の場所」では異質な要素をも組み込みながら、名作の誉れ高い「秒速5センチメートル」で一つの完成を見たのち、「星を追う子ども」では知られざる別の個性を持ち出して深化を加え、「言の葉の庭」を経て、最新作「君の名は。」で過去のあらゆる要素や性質を総合して集成に至ったということになろう。
この興味深い経歴を通じて貫かれてきた主題としては、例えば、「ここは本当の居場所ではない」という感覚、「大切な人がどこかにいる」という感覚の表現があるかと思われるが、同時に、「この場所は意外に美しい」という真実の表現もあったように見える。「君の名は。」で云えば、宮水三葉は飛騨の糸守町における閉ざされた生活を嫌い、そこから早く出てしまいたいと常々思っていたが、立花瀧宮水三葉の眼を通して観た糸守町の雄大な景色の美を愛し、宮水三葉のノートに風景の断片を描き込んだり、糸守高等学校の美術の授業中にも静物デッサンを放棄して風景を描くことに没頭したりしていた(絵を描き、物を作ることにおいて手の動作の習性、慣性の役割は大きいから、宮水三葉の身体に宿って糸守町で過ごしていた間に度々風景を描いていたことが、失われつつあった記憶を手繰り寄せるための風景デッサン作成において果たした役割は、極めて大きかったと考えられる)。
このような、住み慣れた場所にも意外な美があることを表現するのが風景の見事な表現であり、実際、新海誠作品の妙味は美術背景の素晴らしさにあると語られる。そしてそうした風景の表現の美に関して新海誠の今までの作品履歴における現時点の頂点を形作るのが「言の葉の庭」であるのは明白だろう。「言の葉の庭」の風景の美に比するなら「君の名は。」のあの美しい風景さえも、微妙に物足りなく感じられてくるかもしれない。
それにしても、この映画は四十五分間の小品ではあるが、その分、秋月孝雄と雪野百香里の二人、特に秋月孝雄の生活に集中しながら、周囲の人々をわずかに垣間見ることによって人間関係に奥行と密度を与えている。しかるに意外なことに、新海誠自身が執筆した『小説 言の葉の庭』は同じく新海誠が執筆した『小説 秒速5センチメートル』よりも長く、『小説 君の名は。』よりも長い。映画の中では軽く垣間見られただけの人々が、詳しく描かれ、明らかにされている。それどころか、映画には全く触れられなかった秋月孝雄と雪野百香里の数年後の再会が、小説版では触れられている。触れられているというよりは、少なくとも再会の寸前までは詳細に描写されている。この結末の有無は、物語の印象を甚大に変える。なぜ有無の差があるのか。言葉で表現するなら意味ある話も、絵で表現するには無用であると判断したのか、それとも絵では表現し切れない話を、言葉であれば表現できると判断したのか。ここにこそ、この作家の「作家性」が表れているように思われる。
新海誠という作家の面白さの一つは、アニメ映画で表現した話を小説でも表現し直してみせる点にあるが、その根底には、絵で表現できる領分と言葉で表現できる領分は異なるという明快な思想がある。『小説 言の葉の庭』の「あとがき」(384-389頁)にはそのことが具体例を交えて生き生きと述べられていて極めて興味深い。