劇場版ソードアート・オンライン-オーディナル・スケール-七回目/映画ひるね姫二回目

休日。午後に大急ぎ外出。エミフルMASAKIへ行き、そのままシネマサンシャインMASAKIへ。アイス抹茶オレを買い、発券して入場。
午後三時二十分から「劇場版 ソードアート・オンライン SWORD ART ONLINEオーディナル・スケール―」を鑑賞した(七回目)。
来場者特典として頂戴できたabec描き下ろしミニ色紙は、アスナ版(アスナ版とユナ版の二種ある内のアスナ版)。ちなみに先月三十日に獲得した来場者特典は、abec描き下ろしミニ色紙のキリト版だった(キリト版とエイジ版の二種ある内のキリト版)。
昨日までの間にテレヴィアニメ「SAO」第一期の全二十五話、第二期の全二十四話と総集編一話、合計五十話を全て観終えた今、あらゆる登場人物の過去を踏まえることができる。
アインクラッド第百層「紅玉宮」に大勢の援軍が現れた場面をそれぞれの過去を踏まえた上で観ることができれば、物語が蔵する真の熱気を感受できる。
そもそも、この映画に描かれるのは「記憶」をめぐる物語であるが、物語の登場人物にはそれぞれの過去があり、記憶がある。たとえ、この劇場版しか観なかったとしても、キリトとアスナをはじめ主要な登場人物にどのような過去があって記憶があったのかをそれなりには把握できるような完成度に造られた映画ではあるが、もし過去を描くテレヴィアニメ全五十話(正しくは四十九話と一話)だけでも予め観ておけば、劇中の多くの人々の過去を知り、人々の記憶を共有することができる(原作小説をも全て読んでおけば、さらに多くの過去を知り、記憶を共有することができるに相違ない)。
このことの意味の重さは、たとえテレヴィアニメ全話を観たとしてもなお、ユナとエイジについては過去を何も知ることがなく、記憶を共有しようがない点にある。それこそがこの物語の原因に他ならない。ユナ、エイジ(そして重村教授)を除く人々について過去を知り、記憶を共有し得てこそ、この物語の真の意味は最も鮮やかに浮かび上がってくる。
今回そのことを明確に理解できて、今までで最も深く感動できた気がした。
こうして大いに感動して観終えたあと、ロビーに出て、上映スケジュール表を見て、間もなく「ひるね姫」が始まることを確認した上で券を買い、ホット抹茶オレを買って再び入場。
夕方五時五十分から「ひるね姫 知らないワタシの物語」を鑑賞した(二回目)。
あらためて観て、やはり完成度の高く、話も楽しめるかなりの傑作ではないかと思われた。
感動を生じる物語はどのように作られるのかを考えるとき、物語の要をなすのは、真相が認知されて事態が逆転する特別な局面にある。古代のアリストテレースはそのように詩学で論じた。もちろん「劇場版SAO」にも「ひるね姫」にも、真実を知って事態が逆転する瞬間はある。「劇場版SAO」では、明治神宮アインクラッド紅玉宮でキリトがユウナの歌を聴いたとき。「ひるね姫」では、夢の中の主人公が分離したとき。何れでも、涙がこぼれる。
夜八時頃、エミフルMASAKI二階のフードコートで夕食。一階のツタヤ書店に行き、雑誌『spoon.2Di』第二十四号と雑誌『学研ムック Gakken オトメビジュアル2017』、『神山健治Walker』を購入。古泉駅から松山市駅を経て上一万駅まで戻り、食料品店に寄って帰宅。