スタジオポノック第一回長編作品メアリと魔女の花

 午後三時頃に外出。市内電車、郊外電車を乗り継いで古泉駅で降車し、エミフルMASAKIへ。
 午後三時五十分から、シネマサンシャインMASAKIで映画「メアリと魔女の花」を鑑賞。
 券売所で券を購入した時点では客は他になく、まさか広大な上映室を独占だろうか?と心配にもなったが、ホット抹茶オレを買って入場したあと、上映開始の直前に漸く二人組が入ってきて、辛うじて客三人になった。しかし広大な上映室内に客三人というのは、平日とはいえ公開三日目の状況としては寂しい。ロビーはもう少し賑わっていたのに。
 原作がどうかを知らないが、映画を観た限り、物語に込められた意外な意味は、終盤のメアリの「魔法なんか要らない」という軽い一言に表れていたと見ることができる。そして前半における「電気も魔法の一種」という説明から、魔法は科学の比喩であると考えられる。後半における魔法の暴発は、科学の暴走による破滅を表している。誰もが気付くことだろう。
 この一点において映画「メアリと魔女の花」は映画「ひるめ姫」と対比される作品であると云える。「ひるね姫」が魔法としての科学に希望を見たのに対し、「メアリと魔女の花」は科学としての魔法を捨て去ったから。似た基盤を置きながらも正反対の意味を与え、正反対の結論へ進んでいる。前者は現在にある未来への可能性を肯定するのに対し、後者は現在を否定し去る政治運動を肯定している。そう云えば「ひるね姫」も「メアリと魔女の花」も両方とも日本テレビ制作の映画ではあるのか。何れが日本テレビの政治思想に適っているのかは知らない。
 しかし、この映画館で「ひるね姫」を二度は見たが、客はそれなりに入っていた。対するに「メアリと魔女の花」の今日の状況は余りにも寂しかったが、率直に云えば、仕方ないとも思われた。物語の意味をどう受け取るにしても、アニメーション映画作品としての面白さも完成度も「ひるね姫」が上回っていると感じられたから。
 映画館では早くから告知されていた「メアリと魔女の花」は、スタジオポノック第一回長編作品と銘打たれながらも同時にスタジオジブリから繋がる気配を漂わせ、ゆえに予てスタジオジブリ関係者が自慢し続けてきた作画と背景美術の抜きん出た完成度の高さを今回も達成している意だろうことを予想させていた。
 だが、現実はどうだったろうか。登場人物の造形は愛嬌乏しく、表情も動作も格別でもない。背景美術も特別でもない。有名芸能人ばかり集めた声の演技は平板(隣家の老人は特に酷かった)。音楽は一向に盛り上がらない。物語は何も問いかけず何も答えないまま、唐突に政治運動の類のような主張だけ出してくる。おまけに魔法の世界には露骨に微妙なグロテスク趣味が目立つ。
 良かった箇所を挙げれば、様々な動物たちの大群衆が一斉に走る場面二つ位か。
 昨年来、「君の名は。」や「聲の形」、「劇場版SAOオーディナル・スケール」等のような完成度の高い作品が続いてきた今、スタジオポノックを特別視すべき理由はどこにもないように思われた。
 観終えて、パンフレット一冊だけ買って映画館を出て、エミフルMASAKIの一階へ降りてツタヤへ行ってみれば、今や各所で目にする「君の名は。ブルーレイディスク&DVD発売の看板がここにも多数あったが、今日、あらためてそれを見て、やはり立花瀧宮水三葉のキャラクター造形がどんなに魅力に富んでいたかを再認識せざるを得なかった。
 かつて美術館でジブリ関連の展覧会が開かれ、ジブリ関係者による座談も開催された際、「メアリと魔女の花」の監督とプロデューサーを含めたジブリ関係者は大勢の聴衆を前に傲慢にも、他の日本のアニメーション会社の技術と志の低俗性を馬鹿にしながらジブリの特別性、至高性を力説していたが、それは適切であり得るのか。