マギ第三十四巻

 大高忍『マギ』第三十四巻。
 去る五月二十一日にも記したように、第一巻の第二夜の、アラジンとアリババが出会って一緒に冒険を始めたのを読んでいたときには、これからどんなにか楽しい物語になるのだろうかと期待していたが、その後、期待感は一向に満たされないまま、どんどんどんどん妙な方角へ話が転落してゆくことに戸惑い続けてきた。第三十三巻に至っては、神の多重構造における内部と外部の転換の方法という反則が繰り出されてしまったので、流石に呆れるしかなかった。劇中でウーゴが述べていたように、これは物語の登場人物と物語の作者が入れ替わる方法と同じであるから、云わば物語の破壊でしかない。
 物語は現実ではなく仮想ではあるが、それが説得力と魅力を有し得るのは、可能性を必然性において探究してみせるからであり、探究の論理性によって現実を超える現実性を現出させるからであると云える。少なくとも古代のアリストテレースは『詩学』においてそう考えたし、今日でも大概そう考えて間違いないように思われる。
 そして『マギ』の現状に甚だ弱るのは、ギャグとして出すのは差し支えなくとも大真面目にやってはならないことを堂々やってしまっているからに他ならない。アラジンやシンドバッドの物語には実は聖宮のウーゴという作者がいたが、実はウーゴは、ソロモンやウーゴ自身の物語に対して作者の位置にあった上位の神の位置を見破り、それよりも上位に立つことに成功していた。そこでシンドバッドはウーゴの優位に立つことで、ウーゴが支配していた物語に対して作者の位置に立ち得た。このようなことが本当に可能であるなら、次にはシンドバッドは、このようなシンドバッドの物語を作っている大高忍という神の位置を見破ってそれよりも上位に立つことにも成功して良いことになりはしないか。そのとき、アラジンやアリババやシンドバッドの物語を描いているつもりの大高忍の物語を、シンドバッドが描くことになるのだろう。しかし、これは馬鹿げた話ではなかろうか。
 そのようなわけで、『マギ』第三十四巻をもはや熱意を込めては読み得なくなってしまっているが、第三十三巻まで付き合ってきた以上、一応は最期まで見届けざるを得ない気がしている。明日以降、『マギ シンドバッドの冒険』第十四巻にも取り掛かることだろう。
 第三十四巻で驚かされたのは、アラジンとアリババと練白龍とジュダルがシンドバッドの分身をなす七つのダンジョンに挑戦し始め、第一のダンジョンを攻略したあと、第二のダンジョンに突入した時点までしか収録されていないこと。この調子では多分、第三十五巻でも話は終わらないに相違ない。ここまで無茶なことをやって、それでも話を継続してゆくというのは、案外、話を畳めなくなっているのではないのか。