マイボス・マイヒーロー第七話

日本テレビ系。土曜ドラママイ★ボス マイ★ヒーロー」。
脚本:大森美香。原案:「頭師父一體」。音楽:高見優。主題歌:TOKIO「宙船(そらふね)」(ユニバーサル・ミュージック)[作詞&作曲:中島みゆき]。企画協力:明石竜二(ミレニアム・ピクチャーズ)。制作協力:トータルメディアコミュニケーション[TMC]。協力プロデューサー:小泉守&下山潤(TMC)。プロデューサー:河野英裕山本由緒日本テレビ)&山内章弘&佐藤毅(東宝)。企画:東宝。演出:佐久間紀佳。第七話。
この物語の最も基本的な設定は、任侠団体の若頭が二十七歳で高校三年生をやり直すため十七歳の少年たちに混じることにある。そしてさらにこれに付随する設定としては、当の若頭がこれまで生まれながらの極悪人として生きてきたこと、従って普通の少年として生活した経験がなかったこと、学校では正体を完全に隠さなければならないこと等がある。そこに悲しみや驚き、喜びが生じるのだ。しかし今宵の第七話では、以上のような設定からの展開の帰結としての、精神の救い難い分裂が描き出された。物語の諸設定は単に笑えるだけのバカ話を産出するだけではなく、むしろ基本設定それ自体の最も基本的な要素の深刻な破綻、自己崩壊を惹起する。笑えるバカ話の連続の中に悲劇的な主題が浮かび上がりつつある。この底抜けに楽しいドラマが面白さに深い味わいをも伴い得るのはそのゆえに他ならない。
榊真喜男(長瀬智也)は、梅村ひかり(新垣結衣)が暴力を嫌い、憎んでいることを知った。暴力を憎み、暴力的な人間を嫌うということは、榊真喜男(長瀬智也)のような人間を憎み、嫌うということであるだろう。そう気付いたとき榊真喜男はどう考えたか。己の正体を絶対に知られないよう慎重に行動し、上手いこと立ち回ってゆこうとでも考えたか?否、それはあり得なかった。彼は、己の愛する人の思いをそのまま受け止め、己のものにしようとした。暴力的な悪人への憎しみを理解し、共有しようとした。換言すれば彼は自己自身を憎しみ嫌おうとした。しかるに己を憎しみ嫌いながら生きてゆくことは到底できはしない。ここに彼の精神の救い難い分裂状況が生じた。主題における悲劇性が浮かび上がったのだ。
これまでの数話を通して彼は、任侠「関東鋭牙会」での生活とセント・アグネス学園での生活との間の落差に戸惑い続けてきたが、次第に高校生活に馴染み始め、その真の楽しさに気付き始めた中で今や本来の居場所である悪の世界に己の居場所がなくなりつつあるのをも感じ始めていた。今宵の第七話も一応そうした流れの延長上にあり、繰り返しでさえあるが、そこに潜んでいた悲劇性が抉り出されたことで意味が変容した。それどころか先週の第六話では青春を楽しみたいと決意していた彼が、今週の第七話に至っては「青春なんか知らなければよかった」とまで感じてしまったのだ。
夕暮れ時の教室。涙を流しながら青春の苦しみを語った榊真喜男に、何があろうとも学校に通い続け、日常生活を大切にして「本当の強さ」を知って欲しいと語った「鉄仮面」先生こと南百合子(香椎由宇)。この場面の美しさ。厳しさと優しさとを包み込んでいた夕陽の柔らかな眩しさ、静かな温かさ。普通の学園ドラマとして見ても上質の対話の場だったと云えるだろう。ところが、実は教師よりも生徒の方が年上なのだ。しかもそのことを教師は知らない。悲劇の只中にも本質的には喜劇でしかない要素が仕込まれてもいるのがこのドラマをさらに味わい深くしている。
さて、「桜なんとか」こと桜小路順(手越祐也)。意外なことに彼は幼馴染みの梅村ひかりに密かに片想いをしていた。彼の恋心は「マッキー」=榊真喜男に向けられていたわけではなかったのだ。意外だ。「マッキー」に対する彼のあの熱烈な愛のこもった眼差しは、演じる手越祐也の表現力を示したものではなかったのか。
「星野くん」こと星野陸生(若葉竜也)と子分の伊吹和馬(佐藤貴広)&宝田輝久(伊藤公俊)の不良三人衆は今や完全に榊真喜男の愉快な「友達」。昼休みには何時も、桜小路順を含めた五人で仲よく学食にいた。他方、諏訪部祐樹(広田雅裕)&平塚隆介(武田航平)&瀬川保(田中泰宏)の三人組も以前のようには冷ややかではなくなっていたかに見えた。
かの肝試し大会のとき芽生えた早坂雅人(西野成人)と三田真琴(澁谷麻美)との恋は続いていた。早坂雅人の友人、牧信一(足立理)は人妻との交際を続けているのだろうか。