イカ天復活祭

ここ数ヶ月間というもの、疲れていて眠くて休日ともなると昼と夜が少々逆転気味で、おかげで見たい番組を見逃してしまうことが多い。今宵はその点では悔んでも悔み切れない程に悔しい失敗をした。TBS系で夜十時から放送された特別番組「あの伝説の番組再び!イカ天2007復活祭」を冒頭十五分か二十分ばかり見逃したのだ。録画するつもりだったのに油断していて録画の予約を忘れ、ゆえに番組開始から約二十分ばかり欠いた状態でしか録画できなかった。痛恨の極み。それでも、大半を見て録することができただけでも不幸中の幸いと云うべきだろう。
見始めたときは丁度、イカ天KING五週目のFLYING-KIDSにKUSU KUSUが挑戦するところ。KUSU KUSUの曲目は「オレンジ・バナナ」。ヴォーカル川上次郎が「僕だけが知ってる太陽の秘密なんだYA YA YA教えるね幸せの呪文」と歌うときの流し目の笑顔は悩殺的。あんなにも印象的な笑顔を見せることができるのは、現今の「プロ」のアイドルの中でも恐らく増田貴久しかいないのではないかと思う。と云うか、たった今、不図気付いたのだが、増田貴久の笑顔は平成元年のKUSU KUSU次郎の笑顔に一寸似ている。アイドル番組で歌い踊る増田貴久を見て何だか妙に懐かしく感じる所以はそこにあったのか(ただし笑顔以外は全く似ていない)。
一九九〇年刊行『イカ天年鑑』平成元年編で確認したところ、KUSU KUSUが出場したのは一九八九年四月八日のこと。この夜、NEW DAYS NEWzも出ていた。NEW DAYS NEWzのギター門脇学が、のちに原宿ホコ天の新たな王者として売り出されたアイドル系バンドTHE FUSEのGAKUとなるのだ。
今宵の番組で甚だ気に入らなかったことの一つはJITTERIN'JINN(ジッタリンジン)が出てこなかったこと。しかしイカ天史上最も重要なバンドの一つであるはずの彼等を敢えて出さない事情が番組側にあるとも思えないし、案外、今なお現役で活躍しているという彼等の側が昔話の材料にされることを拒否したのだろうか。
私的な記憶と感傷だけで云えば、KUSU KUSU等を輩出した初期から、四代目イカ天KINGのイエロー太陽's、五代目イカ天KINGのRABBIT、六代目イカ天KINGのJITTERIN'JINN、七代目イカ天KINGのセメントミキサーズ、八代目イカ天KINGの突撃ダンスホール、九代目イカ天KINGダイヤモンズの頃までが、深夜番組「三宅裕司いかすバンド天国」略して「イカ天」に最も勢いがあって楽しめた時代だったという印象がある。「たま」マルコシアス・バンプが登場するのはそれよりも少しあとのことだが、その頃には既に世間に「バンド・ブーム」「イカ天」「ホコ天」が異様な熱気を帯びた流行現象として注目されていて、逆にそれを受けてイカ天ホコ天の側が変容しつつあったと思う。ホコ天のTHE FUSEがその典型例だろう。
加えて「たま」マルコシアスバンプも当時の「バンド・ブーム」には殆ど無関係の音楽をやっていたという面が重要だ。平成元年に大人気を誇った「イカ天」の二年目、終焉の時期にあのBLANKEY JET CITYが出て、イカ天ブームそのものに死を宣告した感があるが、実際にはその最も楽しめた本質のところは一年目の前半で終焉していたのではないかとさえ思う。
学生時代の土曜日の深夜、あの番組を一種の「祭」のようなものとして見て面白がっていた者の一人として、今なお忘れ難いのはAURAが出場した夜のこと。番組の途中に大事件が発生し報道された。中国天安門事件(当時一部では「天安門血の日曜日事件」とも表現された)に他ならない。能天気な番組の只中にも歴史的な悲惨な事件の速報が行われるという生放送ならではの状況それ自体が、番組の制作者や出演者のみならず吾々視聴者にも強度の緊張感を与えた。でも速報のあとに登場するのはAURA。髪をそれぞれ赤・黄・緑・紫に染めた四人組で、名前も「みんなのれっず」「龍巻のピー」「ぷりんすマーブル」「あなたの子れっず」。こうして祭は再開され、その最後に登場したイカ天KINGは「子ども騙してやっているバンド」と自称していた六人組セメントミキサーズ。祭そのもののような賑やかな音楽が楽しかった。「子ども」呼ばわりをされていたのはベース増田俊行、十八歳。審査委員長の萩原健太からその技量を絶賛されていたが、なかなか容姿も格好よかったしタンクトップの似合う体付でもあった。
当時のことを確認するため資料を求めて吾が書庫に入ったが、あるのは公式記録としての『イカ天年鑑』平成元年編のみ。当時はもっと沢山の雑誌や書籍を買い漁ったものだったが、大学卒業と同時に四国への就職を決めて引越の荷物をまとめた際、邪魔になると思って全て廃棄してしまったのだ。勿体ないことをした。年鑑以外には二〇〇四年刊行の別冊宝島『バンドブームクロニクル』前後編二冊があり、これを見るとイカ天には関係なくとも当時を代表するバンドの数々について記載されていて、やはり懐かしい。あの時代を最も象徴するバンドと云えるジュンスカことJUN SKY WALKER(S)宮田和弥のインタヴューが興味深い。彼等のライヴァルとも云われながらも音楽的には対極に位置してもいたユニコーンに関する発言の中で「ただジュンスカとしては、僕らにはあのやり方しか出来なかったんだよね」というのが心に染みる(P.10)。「あのやり方しか出来なかった」彼等だからこそ、あれだけ多くの少年少女を熱狂させたのだと思う。一九九三年にジュンスカを脱退した寺岡呼人に関して「ある種ヨヒトも俺らに見切りつけた的なとこはあると思うんだよな」と発言しているのも(P.115)、ヨヒトを含めたジュン・スカイ・ウォーカーズを愛した者にとっては、納得できると同時に辛い。
東京少年についても簡単に記載されていて、懐かしい。彼等の作品は二三曲位しか聴いたことはないはずだが、どこかしら感傷的な音楽だったのを想起する。ヴォーカルの笹野みちるは女性でありながら「少年」の理想像を表現するかのような気配があって、そこが妙に気に障りつつ、気に入ってもいた。だから、かなりのちに笹野がレズビアン告白をしたときには妙に納得できてしまったものだった。
ともあれ今宵のこの番組は極めて貴重で面白かったと思う反面、番組制作者(その主体は三宅裕司とともにFLYING-KIDSやBEGINも所属する芸能事務所アミューズだろう)の側の価値観、歴史観が余りにも前面に出ていて、そこが物足りなくもあった。平成元年の放送当時から既に構築されていたイカ天の云わば「正史」「官製史」を、改めて見せ付けられた感があった。これをもし「イカ天」世代とも云うべきロンドンブーツ1号2号の田村淳を司会者に迎えて、彼の視点を基礎として番組を構成していたなら、もっと平成元年当時の若者たちの見た「イカ天」「ホコ天」「バンド・ブーム」現象そのものを再発見できる内容になっていたのではないだろうか。