あしたの、喜多善男最終回

フジテレビ系(関西テレビ)。「あしたの、喜多善男〜世界一不運な男の、奇跡の11日間〜」。
原案:島田雅彦『自由死刑』。脚本:飯田譲治。音楽:小曽根真。主題歌:山崎まさよし「真夜中のBoon Boon」。第十一話=最終回。演出:下山天
実に程よく中庸を得た最終話だったと思う。解き明かされるべき謎は先週までの十話で解決しているから今さら分析すべきことはない。今はただ余韻に浸るだけでよいのだ。
それにしても、喜多善男(小日向文世)が、これまでの人生の中で最も幸福を感じることのできる想い出の場所、ワイエス風の景色の端に位置する断崖の上の洋館の煙突の上で、まさしく己の身体を墜落させて破壊し滅亡させようとしていたとき、己を死に駆り立ててくれるはずの存在としてのネガティヴ善男(小日向文世一人二役)の名を呼ばわり、出現を待望していた姿には凄みがあった。「十一日後の死」を彼が決意したのは何者に命じられたのでもなく彼自身の自由な意志によるものではあるが、その命令者としての彼自身とは彼の内面に彼の本体から分離するようにして生まれたもう一人の自己としてのネガティヴ善男であり、そこから離れてある非ネガティヴ善男ではない。多大な痛みを伴うはずの己自身の破壊ということを彼が決意し得たのは、彼の内面において、それを命じる者がそれを命じられる者から分離していたからに他ならない。しかるに前日、彼は己自身の内の、否定し去り、忘れ去りたかった全ての嫌なことを改めて己の過去として引き受け、向き合い、そうすることでネガティヴ人格との融合、一体化を果たした。もはやネガティヴ善男が現れてくることはないだろう。それにもかかわらず彼は再び、ネガティヴ善男に声をかけざるを得なかったのだ。自ら死を決意した日にそのための場所で死ぬということは彼にとっては唯一の自由だった。だが、自己とは何か、自由とは何か。実のところは何とも曖昧なのだ。そんなものに囚われて、何になるというのか。煙突の上で彼の見せた殆ど滑稽なまでの迷いは、自己とか自由とか云うものの曖昧性や不安定性を物語るかのようでもあった。
そんな彼の背後に現れたのは、ネガティヴ善男ではなく、友人=矢代平太(松田龍平)だった。ネガティヴ人格とも融和している喜多善男は、矢代平太に対して云った。俺は皆から利用されるだけ利用されたあとには見捨てられるのみ、役目の終わった俺の周囲には誰も残りはしないと。何とネガティヴなことを云うのか。それは眼前の動かしようもない事実を無理矢理に否定しようと空しく試みるものでしかない。なぜなら彼の前には確かに、矢代平太が来てくれているのだからだ。しかも、彼がその場所にまでたどり着くためには、宵町しのぶ(吉高由里子)や鷲巣みずほ(小西真奈美)の関与があった。もちろん杉本マサル(生瀬勝久)と相棒の与田良一(丸山智己)の支援も。
鷲巣みずほ釈放のとき、警察署の門前には喜多善男が待っていた。しかし互いに言葉を交わすことはなく、歩み寄り近寄ることもなかった。ただ喜多善男は少しだけ笑みを見せて、そして去った。もはや二人が会うことはないだろう。二度目の別れと云うべきか?否、少し違うようだ。
かつて二人は結婚し離婚した。離婚したのは、喜多善男と一緒に暮らすことが喜多みずほ(のちの鷲図みずほ)にとって耐えられなかったからだ。だが、なぜ耐えられなかったか。喜多みずほが喜多善男に愛を抱いていないこと、逆に悪事を企ててさえいることを、喜多善男は実は察していて、それでもなお、そんな喜多みずほをも喜多善男は受け容れていた。その優しさに耐えられなかったのだ。だから別れた。それは云わば逃亡だった。喜多みずほ=鷲巣みずほもまた現実に向かい合うことができなくて、それで逃げたのだ。
しかし今回は違う。前回の別れとは意味が違っている。二人はそれぞれ互いに向き合い、過去を見詰め直して、その上で過去の苦い記憶を乗り越えることを決めたのだ。先の別れが単なる逃走に過ぎなかったとするなら今回の別れは全てを清算した上での解決、解消であると云ってよい。
ドラマ終了後、先週までの十話を彩った様々な喜多善男カレー食いの場面の総集編を流してくれたのも実に楽しかった。実際、実家や中村屋の美味のカレーライス(否、カリーライスか?)を食うときの喜多善男の至福の表情こそは、生きることの意義を最も単純にも雄弁に証明していたように感じる。美味なものの喜びをあんなにも率直に表出できる人は稀有だ。これから死のうとしていた喜多善男に矢代平太は、俺のためにカレーを作ってくれ!喜多さんの作ったカレーを食わせてくれ!と懇願し、対する喜多善男も不図思い出したかのように空腹感を覚え、カレーを食いたくなって、死ぬことを止めた。何だか呆気ないようでもあるが、それ以上の何か特別な「生きる理由」がそもそも必要なのだろうか。多分それで充分なのだろうと思う。