炎神戦隊ゴーオンジャーGP49

東映炎神戦隊ゴーオンジャー」。
第四十九話「最終ケッセン」。武上純希脚本。渡辺勝也監督。
次週の最終回を前にした今朝のGP-49に至り、蛮機族ガイアークをめぐる一つの意外な、そして深遠な真理が提起された。彼等は必ずしも「悪」ではないのかもしれないという真理だ。
実のところ彼等が人間界(「ヒューマン・ワールド」)を汚そうとしてきたのは、決して人間界を不快な世界にしたいからではなく、逆に、あくまでも快適な環境にしたいからに過ぎない。そのことは今までの物語においても常に前提されてきたことだ。ガイアークは汚い世界でしか生きてゆけないから、人間界を汚くしようとしてきたのだ。無論それはガイアーク側の事情でしかない。人間界の本来の住人である人間には受け容れることのできない要求だ。汚された人間界は、人間のみならず地球を生活の場としてきた全ての生物にとって快適ではあり得ない。だからこそ炎神戦隊ゴーオンジャー&ゴーオンウイングスはガイアークと戦ってきた。しかし、ことによるとガイアークは彼等のこの抵抗運動を意外な反応として見ていたのではなかったろうか。なぜならガイアークによって汚される前から既に地球は人間自身の手によって汚されていたはずだからだ。人間自身が既に汚してくれているのだから、あとは少しの手助けをしてやれば、「理想のゴミ世界」が容易に実現するはずだ!というのが、蛮機族ガイアーク三賢人、害地大臣ヨゴシュタイン(声:梁田清之)、害気大臣キタネイダス(声:真殿光昭)、害水大臣ケガレシア(及川奈央)の政治思想ではなかったろうか。
ガイアークの皆が気持ちよく生活してゆけるような理想のゴミ世界を実現すること。三賢人連立政権の目標はそこにあった。だが、総裏大臣ヨゴシマクリタイン(声:梁田清之)はそうではなかった。彼には既に、政策も政治思想もない。強大な武力を背景に、孤高の権力を樹立し、恐怖政治を敷き、今や権力そのものに酔い痴れてしまい、権力の行方を見失っているのだろうか。部下たちを皆悉く「捨て駒」にして利用して消費して、そのあとに果たして何が残るのかを想像することもできていない。
環境問題に関する限り、蛮機族ガイアークの正義は、人間や炎神の正義とは一致することがない。だが、権力の健全性に関する限り、彼等の正義は一致し得た。王制であれ貴族制であれ民主制であれ国家の健全性の根本が信頼関係にあるだろうことは、早くも古代ギリシアアリストテレースにおいて明らかにされていたことだろう。キタネイダスとケガレシアは、「独裁者」ヨゴシマクリタインに対し反旗を翻した。これまでの間の三賢人の戦いを見守ってきた者たちには、それは必然だったろう。キタネイダスとケガレシアの両名は、ヨゴシマクリタインの政治に、ガイアーク自体をも滅ぼしかねない「悪」そのものを見出し、ガイアークとか人間とかの別をも超えたその「悪」を、打倒しなければならないと決断したのだ。
この日、ゴーオンジャーにおいても、残されたゴーオンレッド江角走輔(古原靖久)とゴーオンブルー香坂連(片岡信和)とゴーオンイエロー楼山早輝(逢沢りな)の三人が、ゴーオンジャー結成の頃のことを想起して、あらためて三人で戦ってゆくことを決意していた。そんな彼等が、キタネイダスとケガレシアの最期の戦いを目の当たりにした。そして助けられ、激励までもされた。
次週の最終回を前にした今朝のGP-49は、勧善懲悪を明確にしてきた「炎神戦隊ゴーオンジャー」物語の中で正義と悪の意味を再定義してみせることで極めて大きくドラマティクに話を動かして見せたのだ。