仮面ライダーW第四十九話=最終回

東映仮面ライダーW(ダブル)」。
第四十九話=最終話「Eにさよなら/この街に正義の花束を」。
脚本:三条陸。監督:石田秀範。
二人で一人の仮面ライダーを描いた物語の最終話に相応しく、幾つかの要素が対をなしていた。例えば、冒頭で、風都の街を歩き回る左翔太郎(桐山漣)を、追跡する視線が二つあった。一つは地上に、もう一つは天に。地上の視点は今回の依頼人、青山晶(嘉数一星)。他方、天の視点の持ち主が消滅したはずのフィリップ=園咲來人(菅田将暉)に他ならない可能性を、この一年間この物語を見てきた者であれば概ね感じたことだろう。面白いことに、翔太郎自身も、どこかに自身を見詰める何者かの視線のあること、そしてそれがフィリップのものであるとしか思えないことを感じていたのだ。
翔太郎と青山晶も、大切な人を見失っている点において対をなしている。翔太郎は最愛の「相棒」の消滅の悲しみから今なお立ち直れないでいて、青山晶は実の姉の行方不明を心配していた。そもそも青山晶少年は小学生の頃の翔太郎(嘉数一星[一人二役])によく似て、強くて大きな眼の印象的な美少年であるから、翔太郎にとっては他人とは思えないところがあったかもしれない。だが、両名の違いの大きさも見落とせない。三年ばかり前までの(換言すればフィリップと出会う前までの)翔太郎が一人では何もできないにもかかわらず一人で何でもできる気になっているような問題児だったとすれば、鳴海探偵事務所を依頼人として訪れた時点での青山晶少年は一人では何もできないことをむしろ堂々自己主張して、何事も人に頼るのを当たり前と考えるような問題児だった。云わば両極端にあったのだ。
かつて鳴海探偵事務所の助手として修業していた頃、一人では何もできないにもかかわらず一人で何でもできる自信のあった翔太郎は、やがて最高の「相棒」としてフィリップと出会い、さらには何事にも高い能力を備えた鳴海亜樹子(山本ひかる)や照井竜(木ノ本嶺浩)とも出会って、一人では何もできないこと、むしろ「相棒」や仲間たちと助け合ってこそ、一人ではできないことを成し遂げ得ることを知ったが、一年前にフィリップを失って以降は、たとえ一人ででも頑張ってゆこうと決意し、多くの人々の協力を得ながらも概ね一人で頑張ってきた。一人でやってゆける「自信がない」ながらも、何とか「痩せ我慢」で一人で何事も頑張ってきた翔太郎。そこへ、一人では何もできないから人に頼るのが当たり前だと主張する生意気な少年が現れたのだ。かつて生意気な少年だった翔太郎と比べても方向性が違うし、もちろん現在の翔太郎とも違う。なかなか興味深い対だったのだ。
しかし何と云っても興味深かったのは、フィリップ奇跡の復活を受けて、仮面ライダーWを再始動させるに至るまでの翔太郎の奮闘の話と、その一年前の、換言すれば先週の話よりも少しだけあとの、フィリップの「再起動」を実行した園咲若菜(飛鳥凛)の覚醒の話とが、まるで視聴者を少しだけ欺こうとするかのように、同時並行のような形で対置されたことだ。
フィリップの復活を目の当たりにして、翔太郎は爆発的に嬉しそうだったが、この場面に先立っては、録音されたフィリップの声を耳にして、もしや復活したフィリップの声かと勘違いして糠喜びをしてしまった翔太郎の、それが録音された音声に過ぎなかったことを知ったときの失望の深さがあった。怒ることも、声を発することもできない程の失望。絶望と歓呼の対だ。
絶望の翔太郎を立ち直らせたのは、青山晶少年の勇気ある奮起だった。大切な人を救うために危険な場所へ一人で向かった少年を救うためには何時までも落ち込んではいられなかったという面もあるだろうが、やはり少年の勇気に勇気付けられたというのが本質だろう。だが、少年の方こそ、あの悲しみの翔太郎の意地と勇気を知って勇気付けられていたのだ。翔太郎から青山晶少年へ、ハードボイルド探偵の理想とハーフボイルド探偵の意地が継承されてゆくのかもしれないと予感させる話でもあった。それは翔太郎を亡き師の鳴海荘吉(吉川晃司)と対にすることでもあり得る。