渡る世間は鬼ばかり第十部第十五話

昨夜から、書道用の毛筆の安いのを買ってきて洗って乾かして、パソコン用の箒として使用しているが、極めて快適で、絶えずキーボードや画面の清掃をしてしまう。
ところで。
TBS系。橋田寿賀子ドラマ「橋田壽賀子ドラマ渡る世間は鬼ばかり」。
最終部=第十部第十五話。
小島眞(えなりかずき)の、元恋人の大井貴子(清水由紀)をめぐり、親友の森山壮太(長谷川純[ジャニーズJr.])との間の生じた奇妙な三角関係は、ここ暫くの間、このドラマを大いに盛り上げ、吾等視聴者を大いに楽しませてきた。今もその途上にあり、帰結は未だ見えてきてはいない。だが、その三角関係が実際には小島眞の被害妄想によって描かれた幻影でしかないのかもしれない可能性を、考慮しておく必要があるだろう。
森山壮太は小島眞への恩と友情の証として、その代理人として、大井貴子の父の大井道隆(武岡淳一)を助けている意であることを繰り返し強調しているし、大井貴子も、小島眞に対しては、職場「おかくら」の岡倉大吉(宇津井健)や青山タキ(野村昭子)や本間長子(藤田朋子)や森山壮太に対して感謝しているのと同じように感謝している旨を述べている。小島眞を抜きにしては両名の関係なんか固よりないことを両名ともに主張しているのだ。ことに森山壮太は、たとえ大井貴子に特別な好意を抱くに至ったとしても、恩人であり親友である小島眞を裏切るような真似はしたくないと考えるだろう。
だが、幻想は現実と同じ強度で実在であり得る。なぜならそれはそれに憑りつかれた者を動かして現実を変化させ得るからだ。実際に、小島眞は三角関係の妄想に憑りつかれた挙句、親友から恋人を取り戻したいと願望する余り、公認会計士としての将来を投げ打ってでも大井道隆の介護を引き受けようとしたり、森山壮太に対して甚だ失礼にも介護の手当を支払おうとしたりして、祖父の岡倉大吉をはじめ「おかくら」の皆から多大に顰蹙を買い、信頼を失墜させるに至っている。
妄想に憑りつかれてしまった者の悲劇というのは、それ自体で一つのドラマを構成し得るが、それをこんなにもあっさりと、さり気なく描いてしまうあたりに橋田寿賀子の凄さがあるとも云える。
他方、野田弥生(長山藍子)の家にも新たな動きがあった。野田弥生がボランティアの看護師として働いている北川保育園において、園長であり保育士である北川智子(水町レイコ)が政権与党の子ども政策の不備を厳しく批判したのも注目に値する事件ではあったが、もっと重大な事件として、保育園に通う児童の一人、春菜(小林星蘭)が朝から預けられたまま、夜になっても母親が迎えにこなかったのだ。その日の朝、春菜の母親は北川智子との会話の中で、就職のための面接にゆく予定であることを嬉しそうに語っていたらしいから、結局、就職は上手くゆかなかったろうこと、それを嘆いて人生に疲れてどこかへ姿をくらましただろうことは容易に予想されよう。
そして予想通り、野田弥生は春菜を取り敢えず野田家に預かることにした。このところ野田家では、父親に捨てられていたことを知らされた野田良武(吉田理恩)が九歳の若さでヒキコモリと化し、彼を実の兄のように慕ってきた野田勇気(渡邉奏人)が心配しつつも「兄」の心の弱さに苛立っていた。不幸中の幸とでも云うべきか、この幼い春菜が「妹」として出現したことで野田勇気も漸く元気を取り戻したらしい。「他人同士で肩を寄せ合って生きる」ことを実践してきた野田家はさらに拡大してゆくのだろうか。
それにしても、野田勇気の、八歳とは思えない程の心の強さには驚嘆するしかない。彼自身が明確に述べたように、彼は父親を知らないばかりか、母親にまでも捨てられたのだ。それに比較するなら野田良武は、父親には捨てられたかもしれないが、実の母である野田佐枝(馬渕英俚可)がいるだけでも救いがあるではないか!という野田勇気の主張には、なるほど、肯けるものがある。もっとも野田勇気には野田弥生と野田良(前田吟)という実の祖父母がいるのに対して、野田良武は自身を捨てた父親の実家であり、しかも血縁のない野田家に、寛大にも、母親と一緒に居候を許されているだけの不安定な立場にあるわけで、精神の安定感、安心感には大きな差があるのも肯けなくはない。もちろん、帰ってくるはずだと思っていた人に捨てられていたことを知らされたことの喪失感は深刻であるはずだが、その点に関しては野田勇気も同じ境遇にあるのだ。
予告編によれば、春菜の母親は美雨(京野ことみ)。京野ことみNHK朝の連続テレビ小説「てっぱん」で現在、婚約者に捨てられて家も仕事も失った直後にその婚約者の子を身ごもるという役を演じている。まるで続編か連動企画かと見紛うような展開だ。