仮面ライダーオーズ第二十一話

東映仮面ライダーオーズ/OOO」。
第二十一話「バッタと親子と正義の味方」。
かのマイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」が白熱して視聴者をも熱くし得るのは、一つには、正義という理想が現実界では常に矛盾を抱え得るからだが、今朝のこの物語が描くのも、正義というものをどのように信じてゆけばよいのか?という難問だろう。
その難問に目を着けたウヴァ(山田悠介)の戦略は奇抜であると云うほかなく、アンク(三浦涼介)が驚きつつも感嘆したのも肯ける。なにしろウヴァが今回、ヤミーの母体として見出した人物は、正義を貫くべく、悪を倒さなければならない!という信念に憑りつかれた男、神林進(伊嵜充則)。彼を母体にして生じたヤミーは、彼が退治したいと目した悪者たちを、彼に代わって退治してくれていた。やっていることはまるで正義の味方だ。しかもバッタのような姿をしていて、まるで仮面ライダーのようではないか。悪者によって生み出された悪の力を用いて正義をなしているという点でも仮面ライダーに近いと云えるかもしれない。
もちろん構造論的に広く俯瞰した上で判定するなら、神林進の欲望から生み出されたバッタ型のヤミーを正義の味方として扱うことはできない。なぜならあのヤミーは確かに局所的には街の悪者を退治して、困っている人々を助けてはいたが、反面、そうして局所的な正義のために働けば働く程に、人類に敵対するグリードのウヴァを利することになり、全体として街を、さらには人類を困らせることになると予想できるからだ。云わば「世界の平和」を害することにしかならないと考えられるのだ。
だが、論理的にはそうであっても、局所的な、個別の事件に関してはそう考えるのが難しいはずだ。神林進の長男である幼い神林隆(中西龍雅)が目撃した現場も、少なくとも視聴者の知る限り、かなり難しい状況ではあった。彼をひき殺しかけた二人組は、実は別の場所で街の人々に多大の迷惑をかけていた連中だ。神林進とバッタ型ヤミーに追われてバイクで逃走し、偶然にも神林隆をひき殺しそうになったところで、そこへ跳んできたバッタ型ヤミーによって投げ飛ばされた。その辺の事情を知らないはずの神林隆にとってはそのときのそのヤミーは生命の恩人として頼もしく見えたのだろうが、視聴者の知る限り、あれはそれどころか悪者を退治する場面でさえあったとも見えなくはないのだ。
しかるにそこへ仮面ライダーバース=伊達明(岩永洋昭)が現れて、そのバッタ型ヤミーを退治しようとした。悠然とした様子で。幼い神林隆の眼には何れが悪者に見えたことだろうか。
注意しなければならないことがある。バッタ型ヤミーのあのときの行為が交通事故から神林隆を救出しただけではなく、街の不良連中の退治でもあったことを知っていたのが(視聴者を除けば)仮面ライダーオーズ=火野映司(渡部秀)とアンク(三浦涼介)と神林進だけであって、神林隆は知らないということだ。神林隆は、父がバッタ型ヤミーを身体を張って庇い、己の力として、己の正義の味方として擁護するのを見て、それに同調したに過ぎない。どのような状況でどのように行動するのが正義を守ることであるのかを、自分なりに真剣に考えた上での行動ではなかった。
この少年が直面しようとしている難問は、少年のような青年、鴻上財団ライドベンダー隊第一小隊長、後藤慎太郎(君嶋麻耶)二十二歳がこのところ抱え込んでいる難問に繋がり、重なり合ってゆくのだろう。悩める青年、後藤慎太郎は、街で見出した正義感の強い少年の矛盾、難問を見詰め、一緒に抱えてゆくことで、あらためて正義について、力について、正義と力の調和について考え直し、己の志している正義、「世界の平和」とそのための道について見詰め直すことだろう。
後藤慎太郎青年の物語に熱い視線を注いできた者にとって次週の第二十二話は重要な局面となるのではないだろうか。
ところで、今朝の話の冒頭、空缶を路上に捨てた悪い大人に対して神林隆が文句を云って喧嘩になったとき、それを目撃して少年を助けようとした後藤慎太郎が途中から何も云わなくなって傍観者と化し、代わりに火野映司が事態を収拾させた場面をどう見るべきだろうか。
もちろん火野映司は何時でもあのように社交的で行動的で、若いのに大人で頼もしいし、後藤慎太郎は何時でも、行動的ではあっても社交性が足りなくてメレンコリア気質で、必ずしも頼もしくはない。だが、多分それだけではない。あのとき後藤慎太郎が途中から何も云えなくなったのは、少年の余りにも熱狂的な正義感に何かを感じて、考え込んでしまったからだろう。そのように見えた。自身の少年時代を投影するところがあったのかもしれない。次週の解決編を楽しみにして待とう。