のび太とブリキの迷宮

先月二十二日に頂戴していた映画「ドラえもん」第十四作「のび太とブリキの迷宮」DVDを視聴。
眠い中で見始めたが、見ている内に完全に眼が冴えてきた。
藤子・F・不二雄といえばSF漫画の巨匠でもあるが、この物語に描かれているのはSFの世界そのもの。しかも、ロボットが人間を支配するという昔ながらの設定が今や必ずしも荒唐無稽ではなくなってきているところを上手い具合に描いている。
その辺をよく表しているのが、チャモチャ星の国王の、余りにも能天気な改革精神だろう。利欲を求めてロボット技術の高度化を進め、社会を合理化し、古い価値を一掃してしまった挙句、却って人間を機械の一部のようにしてしまい、易々とロボットに支配権を奪われるに至った。だが、このような国王の愚かしさを、安易に笑うことができるのだろうか。
ロボットがネットワークに接続されて全体として一体化しているという設定は、ロボット帝国軍の手強さの源泉であると同時に、脆弱性の原因でもあり、ゆえにドラえもん軍による逆転への唯一の突破口でもある。だが、これは既に現代の現実そのものではないか。しかも映画が公開されたのは一九九三年(平成五年)で、インターネットが未だ普及していなかった時代であり、世界を席巻した「二〇〇〇年問題」の大騒動はもっと後の出来事だったのだ。
このような、実によく練られた設定の中で繰り広げられる冒険旅行も実に斬新だった。なにしろ、ドラえもん不在の「ドラえもん」が半ばを占めているからだ。ことに、スネ夫ジャイアンは終盤の近くまで完全に別行動を余儀なくされていて、そこにおいてスネ夫が意外な知力と胆力を発揮している。
のび太ドラえもんへの依存度の高さを批判する声は古来あったが、のび太ドラえもん不在の状況でも奮闘し得る人物であること、しかもその闘志を支えるのがドラえもんに対する思いであることは、名作「さようならドラえもん」で描かれている。この「のび太とブリキの迷宮」物語でも、ドラえもん不在の中、ドラえもんの力を借りなければ解決しようもないはずの途轍もない困難に敢えて立ち向かってゆく不屈の闘志を支えるのは、のび太ドラえもんへの思いの強さに他ならない。もちろん静香の包容力がなければ、冒険旅行が始まることさえもなかったろう。
ドラえもんが普段とは異なった面を見せたのも見所の一つ。「のび太の海底鬼岩城」では完全に少年少女四人組の保護者だったドラえもんが、のび太と喧嘩した結果、単独行動に出てしまっている。ここにおける束の間の無邪気な様子は印象深い。
だからこそ、ドラえもんがロボット帝国軍に捕らえられ、拷問にかけられ、遂に故障させられて廃棄された場面には恐怖と絶望を感じないわけにはゆかない。
絶体絶命の危機だが、それを打開し得たのは、誰よりもドラえもんを愛し、誰よりもドラえもんを知り尽くしている唯一無二の友、のび太の思いだった。ドラえもんのポケットにスペアがあることは幾度も描かれてきたと記憶するが(ゆえに読者であれば誰もが知っているが)、その在り処を劇中で知るのは唯一、のび太だけだろう。ドラえもんが復活して以降の快進撃は、大長編ドラえもん映画を観る全ての者の期待に応える。
ロボット帝王の威厳は、それと強烈な対比をなす余りにも滑稽な最期においても決して損なわれ尽くすわけではなく、むしろ観者に憐れみをも抱かせる魅力を持つ。実際、ロボット帝国軍は必ずしも悪ではなく、むしろ人間が愚かだったのだ。
この映画で一つだけ残念な点があるとすれば主題歌だろうか。武田鉄矢に作詞を手掛けさせるなら武田鉄矢に歌わせる歌にしておけば良いものを、なぜ中途半端な元アイドルに歌わせてしまったのか。