仮面ライダーゴースト第二十話

平成仮面ライダー第十七作「仮面ライダーゴースト」。
第二十話「炸裂!炎の友情!」。
天空寺タケル(西銘駿)の意を汲んだ織田信長の眼魂がネクロムスペクター=深海マコト(山本涼介)からネクロムの眼魂を追い出して本来の意を取り戻させた。正気に戻ったスペクター=深海マコトはゴースト=天空寺タケルと力を合わせてネクロム体のアラン(磯村勇斗)を追い詰めた。息の合った攻撃に流石のアランも一瞬は打撃を受けたが、強大な力を呼び覚まし得るらしいアランは直ぐに立ち直り、悠然と反撃に出ようとしたところで眼魔界から召喚され、その場を去らざるを得なくなった。
召喚したのは「大帝陛下」と呼ばれるアドニス(勝野洋)。アランの父。召喚の目的は家族会議。そこには既にアランの姉アリア(かでなれおん)、兄アデル(真山明大)も参集していた。そして遅れて現れたのが、「太平陛下」と対等な関係にあるらしい眼魔世界長官イーディス(竹中直人)。仙人(竹中直人)と同一人物であるとしか見えない。
この眼魔世界には深海マコトの身体の本体が保管されているという事実を、深海マコトが明らかにした。アランは、もし本気で深海マコトを消したいと思うなら、いつでもその身体を抹殺することで深海マコト自身を抹消できる状態にあるらしい。
心身二元論を採れば、人間は心身の統一体であり、身体を失っても精神は残り得るとしても、それはもはや人間ではなく霊魂でしかない。人はそれをゴーストと呼んでいる。だから眼魔界に留められている深海マコトの本来の身体を失わせたなら、確かに深海マコトは人間としては存在し得なくなり、純粋なゴーストになるしかなくなることだろう。
ところで、一般には身体は物質であるから自然界の法則に従うしかなく、ゆえに合理性を持つのに対し、心は物質ではないから自然界の法則から自由であり、ゆえに合理性のみには収まらないと解されるように思われるが、この物語の世界ではどうも微妙にそうではないらしい。王世子アデル配下の御用科学者イゴール山本浩司)は眼魔に非合理性がないことを誇り、人間の心が非合理性に満ちていることを馬鹿にしている。イゴールだけではなく、アランも似たような考えを持っていて、心の素晴らしさを説く天空寺タケルや深海カノン(工藤美桜)を否定しようとしている。だが、心に対比される眼魔が身体であるはずはなく、むしろ身体から分離された純粋な心そのものではないのだろうか。一体どういうことだろうか。
イゴールの主張を解するためには、先ずは心と霊魂を分けて考える必要がありそうに見受ける。もし心が身体とは分離され得るとしても、人間は心身の統一体であり、人間の心は身体と一体化している。そして心身が統一されている限り、心は常に身体から作用を受けていて、真には自然界から自由ではあり得ないと考えられる。ゆえに身体から分離された心は、もはや心ではないとも云える。それを霊魂と呼んで区別しておくのが妥当だろう。その上で改めて心と霊魂との対比を考えるなら、着目すべきは身体を支配する自然界の法則の複雑性という点だろう。自然界の法則は極めて複雑な体系をなし、ゆえに自然界は極めて多様な相互作用による変化に富んでいて、変化の行方は無限の可能性を蔵して予想を超えているから、むしろ非合理性に満ちているように見える。対するに、心というものは論理に徹して思考を尽くそうとも容易には自然界を捉え切れない程に有限であり、単純であり、ゆえに自然界の複雑性に比較するなら、あまりにも単純化された合理性の範囲内に収まっているように思われる。そして人間の心が身体と一体化している限り、自然界と繋がっていて複雑であるほかないのに対し、身体から分離された純粋な心としての霊魂は自然界から離れて純粋な論理に徹することができると解される。
そう考えるなら、眼魔界の人々は自然の無限に対して人間の心が有限であることを認識して人間の心を馬鹿にしておきながら、身体から分離した心としての霊魂については、その有限性を、有限性のゆえに誇っているということになる。奇妙であるように見えるが、全く奇妙ではない。なぜなら眼魔は身体から分離された純粋な精神である限り、自然界の法則からは完全に自由であるから。眼魔には自然界が蔵する無限の複雑性を一切考慮する必要がない。だが、このことは眼魔が論理のみで成り立つことを導かない。むしろ自然界の法則から離れた形で論理を考えることの方が、少なくもと人間には難しい。そして、眼魔に身体がないのは間違いないが、心がないとは云えない。