ドリームアゲイン第九話

日本テレビ系。土曜ドラマドリーム☆アゲイン」。
脚本:渡邉睦月。主題歌:コブクロ「蒼く優しく」。協力:読売巨人軍。制作協力:アベクカンパニー。演出:長沼誠。第九話。
このドラマにおける基本的な設定の一つとして、小木駿介(反町隆史)の生まれ変わりとしての朝日奈孝也は己が実は小木駿介の生まれ変わりであるということを誰にも明かしてはならないということがある。だが、この掟はどの程度の厳格性があるのだろうか。
少なくとも、言語行為によって明確に表現しない限りは明かしたことにはならないらしい。例えば、二ノ宮颯乙(加藤あい)や前田健造(渡辺哲)は、朝日奈の言動の一つ一つに小木の気配を濃厚に感じ取っていて、今や小木の生まれ変わりとしてしか朝日奈を見ることができない状態だが、朝日奈はどこまでも朝日奈として行動しているわけであって、それがどんなに小木を想起させようとも己が小木であることを明かしたわけではない。
問われるべきは、己の正体が小木であることを明確に表明したわけではないにせよ己の正体が小木であることを前提しない限り見当違いな言葉遣いであると云われかねないような場合のことだ。具体的には、先月二十四日放送の第七話における野球の練習での出来事。あのとき健造は朝日奈に対し「小木!」と声をかけたが、朝日奈は「はい!」と応えた。「小木!」と呼ばれて朝日奈が「はい!」と応えることが正しい応答の仕方であるためには朝日奈の正体が小木であることを前提するしかない。実際、あれで健造は朝日奈が小木の生まれ変わりであるとの確信をさらに強めたに相違ない。
しかし朝日奈=小木は消滅を免れた。あの応答は、正体を明かした行為とは判定されなかったのだ。何故だろうか。思うに健造の発した「小木!」の呼びかけは、名こそ「小木」でも、あくまでも眼前の朝日奈に対するものである以上、それに朝日奈が「はい!」と応じることは必ずしも不自然ではないと説明することができる。
想像するに、天国庁の田中(児玉清)により課せられた「己の正体を誰にも明かしてはならない」という掟は、朝日奈の全ての言動を対象にして厳格に照合され、厳格に適用されるものではないのだろう。機械的な融通の利かないものではなく、むしろ弁解の余地があるかどうか、説明できるかどうかを問いながらの柔軟な判定が行われているものと思われる。云わば機械が裁くのではなく人が裁いているのだ。
しかし誰が裁いているのか。多分、天国庁のどこかの部局のどこかの課の係官だろう。田中であるのか、田中の同僚であるのか上司であるのかを知らないが、とにかく天国庁の仕事には、杜撰な面もある反面、柔軟性は確かにある。小木の寿命を間違えたのは杜撰な仕事振りを露呈するものだが、手違いによる逝去にもかかわらず小木を生還させなかったのは、天国庁が間違いを認めなかったからではなく、むしろ間違いを認めたものの、小木の身体が既に失われていたからであって、ゆえにその代償として小木には同時期に逝去した朝日奈の身体が与えられた。これだけ見ても天国庁の柔軟性が充分に窺える。神は間違えないが、天使は間違い得る。
今宵の第九話の最後の場では、小木=朝日奈が田中との会話の中で「俺は小木駿介だ!」と云い放った。誰に聴かせるつもりもなく誰にも聴かれてはいないはずのその会話を、二ノ宮颯乙は偶々聴いてしまった。しかし小木=朝日奈は(少なくとも現時点では)消滅していない。消滅までには執行猶予期間があるのかもしれないが、もし以上に論じたような天国庁の係官における裁量権を想定するなら、決して不自然な事態であるとは云えないのだ。