モーレツ!オトナ帝国の逆襲をめぐる雑感を再び

昨夜DVDで観た映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」(二〇〇一年公開)をめぐり色々無益に考えたことを再び。
一体、ケン&チャコは何を考え、何を起こしたのか。
二十世紀の後半の、日本万国博覧会の時代の人々は二十一世紀を希望に満ちた世界として想い描き、その幸せな未来の到来を夢見ながら働いてきたが、結局、現実に到来した二十一世紀は夢も希望もない世界だった。何よりも、人間の生活の「匂い」を喪失していた。かつて未来に夢と希望を抱いていた子供たちは今、大人になって、夢も希望も見失い、生活の「匂い」をも失っているように見えた。
この現実に失望したケン&チャコは、「匂い」に満ちていた世界の復活を企てた。懐かしい「匂い」に満ちた街を再建してそこに住みながら、外界には「20世紀博」を開設して、その懐かしさによって大人たちを童心に帰らせた。そして人々を三十一年前の状態へ引き戻してそこへ留め、そこで進歩を止めさせ、未来をなくさせる代わりに、未来への夢と希望に満ち溢れていた時代を永遠に持続させようとした。
しかるに、ケン&チャコの計画は未遂に終わった。野原しんのすけの果敢な抵抗によって止められたわけだが、この果敢な抵抗を成功させる背景があったことも見落とせない。この根本には、ケン&チャコの診断の誤りがあったろう。
そもそも二十一世紀は本当に三十一年前(そして今や四十六年前)の「匂い」を一掃したのか?と考えるに、多分、一掃してはいないのではないか。なぜなら進歩が制御され、拒否されている面もあるように見えるから。
例えば劇中にも登場していた「人間洗濯機」。現在、介護用の浴槽としては実用化されているようだが、一般に普及するとは信じ難い。なぜなら入浴は単に身体を洗濯することだけを目的にしているわけではないから。
食生活に関しては、昨今、美容と健康の観点から従来の食生活を批判するような荒唐無稽な言説が度々流通するが、それでもなお、チューブ入の食料や錠剤型の栄養分だけで生きてゆく人は極めて少数に留まるに相違ない。なぜなら食事は単なる栄養摂取ではないから。
人間の生活や感情には人それぞれに無駄とも見える部分が多くあるが、それを除去して合理化すれば、生きる意味が見失われることにもなりかねない。だから人々は合理化に抵抗し、合理化を拒絶する場合がある。進歩が制御され、拒否されている面もあると考えられる所以である。古来フィクションでは馴染み深い「マッドサイエンティスト」のイメージはそうした事情を照射していよう。
しかるに、このように進歩を拒絶して旧来の生活を続けようとする感情と習慣こそは、ケン&チャコの愛着する「匂い」の本質ではなかったろうか。
ゆえに、「人類の進歩と調和」を標語とした日本万国博覧会から三十一年(そして今では四十六年)を経てもなお「匂い」は一掃されていないに相違ない。だから、例えば、正月のための御節料理を年末の内に拵えておくことの合理性が消滅してもなお、正月には御節料理が必要であると思う習慣と感情は残存し、たとえ一から拵える手間を省くにしても、食料品店で調達したり宅配便で取り寄せたりする人々が多数を占め続け、そうして世間に年末と正月の「匂い」を留めている。
そう考えるなら、普通の人々の生活や感情に関して一九七〇年と二〇〇一年の間に深刻な断絶があるとは信じ難い。違いは多数あるにしても、断絶が深刻であるとは思えない。実際、ケン&チャコの街に住んでいる人々にとって野原一家は理解し難い未来人ではなかった。それどころか、むしろ昔懐かしい家族であるとさえ見えたかもしれない。「20世紀博」の屋上にある東京タワー風のタワーの頂上を目指すとき、野原一家はエレベーターで上がることの危険を予想し、階段で、脚を使って駆け上がることを選択した。未来人ではないどころか、まるで原始人のような野生の判断力と行動力。そして家族の結束力。野原しんのすけの奮闘が人々の心を動かし、ケン&チャコの計画を無効化するのは必然だった。
だが、そうなると、ケン&チャコの「20世紀博」が大人たちを魅了し、虜にして狂わせた原因は何か。もちろん一つには昔懐かしいもの一般が持つ魅力ということがあり、これに関連して、昔懐かしい「匂い」を浴びせられたことで大人たちが狂わせられたということもあるが、もっと基本の原因として、「進歩」とは全く別の事情による社会の合理化によって大人たちが疲れ果てていたということがありはしなかったろうか。