篠山紀信事件ヲ論ジテ裸体芸術論ニ及ブ

夏七月から先月までの間それなりに楽しんで見続けてきたテレヴィドラマ「オトメン(乙男)」が先週で終了してしまい、現在、火曜日の夜に見るべき番組がなくなってしまっている。それでニュース番組を見ていたら、写真家の篠山紀信の事務所が公然猥褻の容疑で警視庁の捜索を受けたことが報じられていた。Yahooニュース等にも、例えば「路上・公園で全裸撮影、篠山紀信事務所を捜索」(11月10日12時26分配信 読売新聞)等とある。
東京都内の道路上や公園、墓地、結婚式場、JR山手線の線路上等で女性ヌードを撮影していたことが容疑の内容とのこと。なるほど法に反する行為であり、罪に問われよう。私的には、墓地を背景にしたヌードを撮影すること自体に疑問を持つ。そんなものを美しいと見る感覚を理解できないし、理解したくもない。だが、反面、猥褻の範囲については少々再検討も必要だろう。
そもそも日本において人前で裸になることが罪に問われるようになった事情には欧化政策を進めた明治以降の歴史的経緯がある。しかし同じ明治期における所謂「裸体画美人」論争が物語る通り、徳川幕府の役人たち程には優秀ではなかった新政府の役人たちは西洋の事情を正確に把握しないまま何事も単純化し極端化してしまったような面がないとは云えない。確かに近代都市の街中を全裸で歩かれては流石に困るだろうし、半裸で歩かれるのも迷惑だと感じる人もいるだろうが、江戸時代までは、夏の蒸し暑い昼間、街中で半裸になるのは自然なことだったわけなのだ。世界の法令を知るわけではないが(むしろ知らないが)、裸を罪として取り締まることにおいて吾が日本国以上に厳格な国家は、案外、少ないのではないだろうか。
裸がどこまで取り締まられるべきか?という問題は再検討に値する。だが、それとは別に、裸の「表現」の質の問題は、法的にではなく美学芸術学的に判断されてよいはずだ。例えば、墓地を背景にしたヌードに何の意味があるか?と考えるなら、たとえ芸術的には何の価値もなくとも、裸であってはならない場所で敢えて裸であることの挑発性があるのだ!と云う人がいるかもしれないが、そんなものは所詮、単に裸が禁じられていることを前提して初めて成立する程度の挑発ではないか。ここにあるのは、云わば(使い古された言ではあるが)取り締まる側と取り締まられる側との共犯関係でしかない。芸術的問題はそこには存在しない。
篠山紀信といえば十八年前に所謂ヘアヌード論争の火付け役になったわけだが、あの論争で繰り返し述べられた「芸術か?猥褻か?」という二者択一も甚だ気に入らない。これは二者択一として全く成立しないだろう。芸術的な裸体の表現は必ずしも猥褻には見えないかもしれないが、それは観照の態度の問題として説明されるべきだ。逆に、裸体を主題化しておきながら猥褻にさえなれない程に魅力を欠くような退屈な表現物が、どうして芸術的であり得ようか。実のところ、当時は何等の猥褻性も感じさせないヌードが横行していたが、それ等は断じて芸術的ではあり得ない。逆に、例えば古代ギリシア・ローマの裸体像は純粋視覚上の造形美の作品であるかに見えて、その造形美を支えるのは健全な身体の美に対する礼賛と研ぎ澄まされた感覚であるはずだが、そのような生きた視覚(非純粋視覚)に一切エロティクな感情が含まれていなかったとは信じ難い。芸術と猥褻は両立する。