あしたの、喜多善男第二話

フジテレビ系(関西テレビ)。「あしたの、喜多善男〜世界一不運な男の、奇跡の11日間〜」。
原案:島田雅彦『自由死刑』(集英社)。脚本:飯田譲治。音楽:小曽根真。主題歌:山崎まさよし「真夜中のBoon Boon」。プロデューサー:豊福陽子関西テレビ)&遠田孝一(MMJ)。制作:関西テレビMMJ。第二話。演出:下山天
十一日後に自ら死ぬことを決意していた喜多善男(小日向文世)。既に第一日目は終わり、残された人生は十日間。
残された十一日間の第一日目を描いたのが先週の第一話で、今宵の第二話では第二日目が描かれたが、同時に、第一話と第二話とは半ば表裏一体の関係にもあった。第一話において少々謎めいた行動を見せた人々の動機が幾らかは第二話において明かされたようなところがあったのだ。実のところ、第二話のこの二重性が吾々怠惰な視聴者の負担をかなり軽くしてくれたのは確かだろう。週に一度のみの放送が三ヶ月間も続く中で、無数の疑問点を抱えたまま視聴し続け、物語の行方を追跡し続けることは流石に難しいから、ドラマの緊張度を保つ上に支障ない範囲で時々このように適度な緩和の場を設けておくことは、有益な手法であると思われる。
喜多善男は先週の第一話で宣言していた通り、三年振りに郷里へ帰省して父の墓へ参った上で実家へも立ち寄り、母=静子(加藤治子)の手作りチキンカレーを食った。しかし彼は二つの事実に驚かされた。一つは、母が亡き夫の仏壇を二階の部屋の奥に隠すようにして、夫が既にいないこと自体を忘れていたこと。もう一つは、善男が妻みずほ(小西真奈美)とは既に八年も前に離婚して、孤独な独身生活をしてきたことをも、母が忘れていたこと。これを仮に単なる老いに伴う記憶力の低下によるものと考えたとしても充分ドラマの一場面として有意味的であり得る。なぜなら、もはや若くはない男が己よりも一段と老いている母に数年振りに会い、その老いの深さに直面して無常を実感するという情景はそれ自体ドラマティクであるからだ。
だが、このドラマにおけるあの場面に別の含意のあることは、夫の仏壇が二階の部屋の奥に隠されていた図の物語るところだった。喜多静子は、夫の死を何時しか不本意にも忘れてしまっていたのではない。逆に無理矢理にでも忘れようとして、自ら選択して決意して忘れてみせたのだ。もちろん喜多善男の離婚の件も同じことだろう。吾が子が離婚という苦境に立たされ、もはや若くもないのに独身と化して孤独に耐えているという事実を、あの老いた母は受け容れたくはなかったに相違ない。
嫌なこと全てを忘れて残された日々を楽しく幸福に過ごしたいという思い。これは実は、十一日後(そして今や十日後)の死を決意して、残された日々を、好きなことをして過ごしたいという喜多善男の思いと同じなのだ。
彼の忘却の対象となる範囲は、過去の苦しかった歳月だけではなく、現在の苦悩にまで及んでいる。彼に対して親切に振る舞う矢代平太(松田龍平)が、その代償として多額の報酬を取り上げるばかりか多額の保険金まで掛けようとしていることは、彼にとって断じて幸福な出来事ではない。これまでの二日間に起きた出来事は(新宿中村屋の印度カレーの美味という純粋な幸福を唯一の例外として)どれもこれも決して曇りない幸福感を味わえるものではない。そう考えるなら、何もかも嫌なことを忘れようとする彼の前に出現する妄想の中のもう一人の彼自身=「ネガティヴ善男」こそが実は、彼に対し、善く生きてゆくための初歩を知らせようとしているのかもしれないのか。