草ナギ事件と木村拓哉

仕事からの帰宅後、未見の「侍戦隊シンケンジャー」第十幕と第十五幕と第十六幕の三話の内一つでも見ておこうと思っていたが、気力が足りなくて結局一つも見ることを得なかった。一応テレヴィを点けてはいたが、丁度そのとき「スマスマ」における「ビストロSMAP」に爆笑問題が出ていて、それを見ただけで終わってしまった。
今宵の「スマスマ」は泥酔に因り野外で全裸を露出した罪で逮捕されて芸能活動を暫く自粛していたSMAPメンバー草ナギ剛が早くも復帰するのを寿ぐの特別番組。今回の草ナギ事件に関して太田光は、「太田総理」か何かで「公然猥褻罪」発言をして笑いを取っていた位であるから、草ナギ復帰を「苦悩を超えて歓喜へ」の物語に仕立てるような進行には抵抗するだろうことが予想できたはずだが、それにもかかわらず爆笑問題を「ビストロSMAP」に呼んだのは案外、木村拓哉の意向によるのではないかと推察されよう。なぜなら(現在放送中の木村拓哉主演「MR.BRAIN」に田中裕二が出演していることを別にしても)そもそも草ナギ事件について最も冷静に厳しい見方をしていたのが他ならぬ木村拓哉だったらしいからだ。
太田光木村拓哉崇拝者ではあるが、狂信的な支持者ではなく、ホリのキムタク物真似「ちょ待てよ!」を木村拓哉本人の前で真似してしまうような面もある。そして気に入らない事態に対しては(それなりに場を弁えつつも)暴言を吐かないではいられない人物として芸能界を生きてきている。木村拓哉はそこを見込んだに違いない!と考えてみてはどうだろう。
彼の意を推察するには三段階に分けて考える必要がある。
草ナギ事件に関しては、本来なら笑い話で終わる程度の事件だったにもかかわらず家宅捜索まで行われたり、民間放送各社の報道番組や情報番組でも事件の大きさには見合わない大きさで取り上げられたりした所為で、事件そのものの本質を論じることが極めて難しいことになってしまっている。テレヴィでは草ナギを芸能界における「良い人」の代表格と評しつつ、「あんな良い人がどうして?」みたいな報じ方を連発していたが、実のところ、「良い人」であることを過度に強調することは、逆に事件の犯罪性をあたかも重大なものであるかのように錯覚させてしまう。そうした効果を知った上でそのように報じたのであれば恐ろしいし、解ってなくてそうしたのであれば余りにも愚かだ。草ナギは「良い人」みたいに見えて実は悪い人だったわけでもなければ「良い人」なのに悪いことをしたわけでもなく、単に、法に反する行為をしてしまっただけなのだ。云わば、人も車も通らない道路で信号無視をしたようなものだと解すれば解し易い。
その意味では草ナギ復帰を番組を挙げて祝福することは倫理に反することでも何でもない。でも、それでもなお、草ナギ剛には重大な過ちが一つある。それは正気を失うまでに泥酔していたことだ。それ自体は誰にでもあり得る失敗ではあるが、「牛に許されることも神には許されない」。普通の会社員であれば少々泥酔しても損害は小さいが、「国民的アイドル」の場合は小さくないし、何よりも、アイドルの生命がアイドル性とでも云うべき幻想の喚起力にあるとすれば、アイドル芸能人は己のイメージを自力で制御し続けることができなければならないし、当然、己のイメージを制御できなくなるような行為は慎んでおく必要がある。泥酔なんか以ての外で、木村拓哉が自宅謹慎中の草ナギ剛に対して厳しい態度を堅持したのは、多分その一点に関して反省を求めるためだったろうと思われる。
そもそも草ナギ事件の本質は、「本来なら笑い話で終わる程度」どころか「どう転んでも笑い話にしかならない程の間抜けさ」にこそある。復帰を美談に仕立てることに倫理的な問題はないが、そもそも美談になんかなるはずもない。そしてアイドルにとってはそれは甚だ困る事態でもある。克服するためには一切を誤魔化して美談に仕立てる前に先ずはその「間抜けさ」を確り受け止めておく必要があったろう。恰好付けているのに間抜けなことになったわけではなく、間抜けなことをしたから間抜けなのであると自覚できているということを自ら宣言するしかない。木村拓哉の意図はそのことの宣言にあったに相違ない…と考えておくことにしたい。