任侠ヘルパー第七話

フジテレビ系。木曜劇場任侠ヘルパー」。第七話。
脚本:古家和尚。演出:石川淳一
このドラマが視聴者を惹き付けるのは、見ていて憂鬱になる程の重さがあるからに他ならない。その点で今宵のは強烈だった。なぜなら介護は家族愛の問題ではない!ということを強烈に描き出してみせたからだ。
人は介護の問題を家族愛の問題として語りたがる。老いた親の面倒は、その親によって育ててもらった子が、親の慈悲に対する恩返しとして、最後まで家族愛をこめて見るのが当然である!と。ことに高齢者たちはそうだろう。そして今まさしく羽鳥晶(夏川結衣)が、親の介護を放棄して見殺しにしておきながら今や介護事業の会社の社長として大成功を収めて財を成している罪深い女として、世間の非難を浴びている。だが、真相はどうだったのか。語られない真相を連想させるかのような話として、長岡孝江(江波杏子)の介護のために人生の全てをも捧げざるを得なくなりつつあった長岡初美(西田尚美)の苦悩が描かれた。
介護を家族で担うことができるのは、家族の中に有閑階級が存在する場合に限られるに違いない。生活を成り立たせるために社会で仕事をしながら、それとは別に介護にも尽力するというのは、人間に可能な業であるとは思えない。愛があれば何でも乗り切れるというわけではない。
実際、長岡初美は、身体に不自由を抱えた母が日常生活になるべく不自由を感じないでいられるようにするために全力を注いでいた。己の自由も、生きる喜びも、何もかもを放棄していた。だが、そのような人生は本当に成り立つものだろうか。己の人生の全てを(たとえ家族といえども)己自身ではない者のために捧げなければならない生活に、人はどこまで耐えてゆけるのか。それが生き甲斐であるなら問題ないが、そのような生き甲斐は本当にあり得るのか。あり得るとしても、生活の資を得ることはできるのか?という問題は残る。長岡初美が「心中」を考えたのは、介護からも生活からも逃れることができない二重の拘束の中で、それ以外の選択肢がなかったからだ。生きてゆくこと自体に耐え難い苦痛を感じている者に対し、なおも生き続けることを要求するのは、死ぬ程の苦痛に耐え続けることを要求するに等しい。
それにしても、羽鳥涼太(加藤清史郎)が果たした役割は大きかった。彼の幼さが長岡孝江の心を開かせたばかりか、真摯な問いかけが、この元教師が自身の子であり教え子でもある初美との間に一体どのような関係を築いて、そして今なお保ち続けているのかをも自ずから浮かび上がらせた。彼が師とも仰ぐ翼彦一(草なぎ剛)の行動はそこから起動した。翼彦一にとって彼は弟子だが、同時に、彼の行動は様々な形で翼彦一の感情を刺激し、思いを抉り出して明らかにして、行動の原理を導き出してしまうことがある。そう考えるなら羽鳥涼太は翼彦一の弟子であると同時に師でもあるのだ。
長岡家の介護の問題に、羽鳥晶の問題も、羽鳥涼太の問題もそれぞれに絡み合い、全体として異様に迫力ある話になっていたと思う。