仮面ライダー鎧武第五話

平成「仮面ライダー」第十五作「仮面ライダー鎧武」。
第五話「復活!友情のイチゴアームズ」。
この物語の面白いところは、沢芽市内のダンス集団群がインベスゲームを通して繰り広げる競争が既に世界の縮図であるのに加えて、この云わば箱庭の中の安全な競争を超えたところに、もっと過酷な現実、もっと恐ろしい戦いがあることをも描こうとしていると見える点にある。
葛葉紘汰(佐野岳)と呉島光実(高杉真宙)の関係も、それとの関連で見ることができるかもしれない。
例えば(1)呉島光実は富裕の家庭に生まれ育ったことから、将来の進路を全て約束され、その枠の中で全力を尽くすことのみを求められてきたのに対し、葛葉紘汰は早くに両親を亡くし、決して豊かではない家庭に生まれ育って、姉の葛葉晶(泉里香)と二人で力を合わせて生活していて、そのゆえの不自由には苦しんだにしても、将来を何も約束されてはいない中で、己の意思に基づいて自由に人生を選択してきた。箱庭の防壁に守られている呉島光実から見れば、姉の他には誰も守ってはくれない中で逞しくも自由に生きる葛葉紘汰は、輝いているに相違ない。
もっとも、沢芽市の経済も政治も教育も文化も大企業ユグドラシルの影響下にある以上、葛葉家の小さな自由も所詮はユグドラシルの作る箱庭の中の自由であり、むしろユグドラシル幹部への道を約束されている呉島光実こそが、箱庭を超える力を持ち得るのかもしれないとすれば、凄まじい皮肉ではある。
もう一つ見落とせない両名の関係として(2)アーマードライダーの力の限界に関する認識の差を挙げなければならない。呉島光実は今のところアーマードライダーの力をインベスゲームの範囲内でしか見ていない。彼はインベスゲームで戦い抜くことを通して、実人生における箱庭の防壁を超えた自由を勝ち取ろうとしている。しかし彼の戦い自体は今なお、インベスゲームという箱庭の枠に収まっている。今後、もっと恐ろしい敵が出現し、あるいは容赦ない事態の変化に見舞われて、アーマードライダーの力を所有することの真の危機を思い知らされることもあるかもしれない。これに対して葛葉紘汰は既にヘルヘイムの森で怖い目に遭ったとき、アーマードライダーの力が殺し合いの力であることを知った。インベスゲームからゲームという防壁を取り除いたとき現れる生の戦闘の恐怖を、既に知った。知った上で、アーマードライダー鎧武として復活した。
アーマードライダー鎧武=葛葉紘汰の復活は、アーマードライダー龍玄として戦い抜こうとしていた呉島光実の姿を見た葛葉紘汰が、己の果たすべき「責任」を知ったことで生じた。「強い奴の背中を見詰めていれば、心砕けた奴だって、もう一度立ち上がることができる。誰かを励まし、勇気を与える力。それが本当の強さだ」。葛葉紘汰は呉島光実を立ち上がらせるためには己の背中を見せなければならないと知ったのだ。
今のところは隙のない強さを見せ続けているアーマードライダーバロン=駆紋戒斗(小林豊)は、まだゲームにおける勝敗にしか興味がなさそうである点で葛葉紘汰の境地には達していない。予て葛葉紘汰を「弱さの枠には収まらない奴」と認めていた駆紋戒斗は、ライヴァルの復活には感心しつつ、「力を示し、弱者を支配する。強さを求める意志がない!」と嘲笑した。だが、ここに云う「力」も「支配」も「強さ」も、今のところはゲームの枠に収まる話でしかない。
これに対して葛葉紘汰が「違う!強さは力の証明なんかじゃない!」と反発した。そして「強い奴の背中を見詰めていれば、心砕けた奴だって、もう一度立ち上がることができる。誰かを励まし、勇気を与える力。それが本当の強さだ」と続けたわけだが、これはゲームの防壁を超えて、人生について述べた言に他ならない。
とはいえ箱庭が世界の縮図であり、インベスゲームが国防の似姿であるところも見落とせない。ここにおいて呉島光実が知性に満ちた志士であることが、今朝の話の前半で窺われた。彼はダンス集団「鎧武」の仲間たちを前に、沢芽市内のダンス集団の勢力均衡が大いに崩れてきている現状について極めて冷徹に分析していた。
有力なダンス集団群の過半がバロンの配下に加わり、そうして強大化したバロン連合軍に加わっているか否かでダンス集団群が敵か味方か明確に分断された結果、これまでのバランス・オブ・パワー状況では最低限に抑制されていた戦闘が今や頻度を高め、熾烈を極めてきているというのが、呉島光実が述べた現状だった。
これに対して、そうであるならバロンに敵対するよりはむしろバロン連合軍に加わってしまった方が、戦う必要もなくなって平和ではないのか?という無邪気な、しかし妙に現実味のある提案を仲間たちが発したが、それに対する呉島光実の回答は独立自尊のための自主防衛の必要性を説くものだった。なにしろバロンの配下に加わったダンス集団は有力なダンサーをバロンに引き抜かれてしまうのだ。しかも引き抜かれた者はバロンの仲間にしてもらえるわけでもなく、バロンのバックダンサーにしかしてもらえない。戦うことを避けて自由と平和を享受するためにバロンの支配下に入ることは、ダンス集団としての自由も意味も完全に失うことでしかない。反戦平和主義の安保体制は惨めな隷属への道でしかないのだ。
今朝の話の前半において呉島光実がこのように現実政治の感覚を発揮したのに対し、兄のアーマードライダー斬月=呉島貴虎(久保田悠来)は今朝の話の最後に、とんでもない油断を見せた。錠前ディーラーのシド(浪岡一喜)が戦極ドライバーの保持者のリストを見せようとしたのに対し、呉島貴虎は、不良青年たちへの戦極ドライバーの流通に関してはシドに委ねていることを理由に、リストを受け取らなかった。弟がその中に入っていることを、知る機会を自ら捨てたのだ。
両名の会話には多くの情報が含まれていた。先ずは、ロックシードや戦極ドライバー六機の生産者はユグドラシルであり、シドはその流通を委託されていたこと。換言すれば、ユグドラシルとシドは(予想通り)結託していたこと。呉島貴虎の勤務するユグドラシルの研究所はヘルヘイムの森の謎について研究していること。ゆえにヘルヘイムの森には謎があり、解明されていないこと。戦極ドライバーの購入者は、ユグドラシルから見れば「モルモット」でしかないこと。換言すれば、アーマードライダーの戦闘も、その前提としてのインベスゲームも(そして恐らくはダンス集団間の競争も)、全てはユグドラシルの仕組んだ壮大な人体実験でしかないこと。他方、ヘルヘイムの森へ行く「時空間転移の手段」をも一部の「モルモット」に与えたのはシドの独断に因るものであり、呉島貴虎はそれを快く思っていないこと。ゆえに第四話において葛葉紘汰に彼が恐怖感を与えたのはその不快感の表明だったこと。
要するに、アーマードライダーの戦乱はユグドラシルの仕組んだものであるにもかかわらず現時点でも既に、ユグドラシルの予想していなかった事態が生じていると見られる。その一つは「モルモット」がヘルヘイムの森に出没してその謎を解き、「モルモット」の分際を超越してしまうかもしれないということだ。呉島貴虎は葛葉紘汰に、ゲームの枠を超えて戦うことを要求して怖がらせたが、実際には、葛葉紘汰が呉島貴虎の拵えた枠をも超えてしまうのではないだろうか?と予想することもできる。
もう一つは、呉島貴虎が「モルモット」と形容して馬鹿にした五人の中に、彼の愛する弟、呉島光実が入っているということ。しかもその事実を彼が知らないということだ。これがとんでもない事態を惹起するだろうことは大いに予感される。
ともかくも、アーマードライダー鎧武=葛葉紘汰がアーマードライダーバロンの作った結界を打ち砕いた絵の格好よさは際立っていたし、葛葉紘汰と呉島光実の関係の熱さに見応えがあって面白い話だった。