ヤマトナデシコ七変化第三話

TBS系。金曜ドラマヤマトナデシコ七変化」。第三話。
原作:はやかわともこ。脚本:篠崎絵里子。演出:川嶋龍太郎。
丁度よい具合の馬鹿馬鹿しさがあって、今週のは今まで以上に楽しめた気がする。妙に恰好よい映像や深遠に響く台詞までもが笑いを惹起するように出来ていたように思う。例えば、行方不明だった中原スナコ(大政絢)を、一晩中の捜索の末についに探し出した高野恭平(亀梨和也)が両腕の上に寝かせるようにして、所謂「御姫様抱っこ」の形で抱き上げて、彼の両脇には遠山雪之丞(手越祐也)と織田武長(内博貴)と森井蘭丸(宮尾俊太郎)も並んで、朝陽を背に浴びて歩いていた場面。画それ自体としては極めて颯爽としていて恰好よいのだが、なぜか笑える。なぜか。多分、格好よさが似つかわしくない話の中に突如として出現した異様な格好よさだったからだろう。そもそも抱き上げられている中原スナコはコウモリのような鴉のような黒マントを着ていて、どう見ても「御姫様」ではないし、この行方不明の騒動の発端は、中原スナコが唯一無二の友として愛する不気味な解剖図解の立体模型が紛失したことにあった。こういう恋愛ドラマには似つかわしくない奇妙な材料ばかりを寄せ集めておきながらも何時しか御姫様と貴公子たちのロマンスが創り出されてしまっていることが、意表を突いて面白いのだろう。(江戸時代の細工見世物の如し!と形容してもよい。)
思い起こせば、第二話におけるあの御姫様キノコの毒を解く王子様のキスの事件にもこれと同じく、馬鹿な材料で騎士道風ロマンスを拵えてみせる面白さがあったと云えそうだ。
実のところ、本当の恋、本当の思いをめぐる台詞の数々には一寸した深遠なものもあったのだが、その全ては、中原スナコから最も熱烈に愛されているのが結局は「ヒロシ君」と名付けられた解剖図解の立体模型であるという事実によって、笑い話に変換されてしまう。中原スナコから「ブスナコ」への変身はそれをさらに強調する。でも、そうして油断していると、その直後、あんなにも恐ろしかったはずのストーカーまり(星野亜希)の悟りと諦めの心境が穏やかに優しく描かれて、見ていて何だか寂しくもなるのだ。
トーカーまりの怖さと弱さと悲しさは絶妙に混ぜ合わされて描かれたが、時々ホラー映画の戯画のようでさえあった恐ろしさの描写は、極端な形を取ることで笑いを誘いつつも、最後には、最も自然に深い形を取ってみせることで、さり気なくも笑えない水準にまで達していたと云えるかもしれない。これまでアイドルに対する一方通行の愛を高野恭平に向けてきたストーカーまりは、当の高野恭平からその思いを拒否され、「本当の恋」についての彼の考えを聞かされ、見せられた結果、ついに「本当の恋」に落ちてその意を知ることができたが、困ったことにその恋の対象は、結局は、アイドルならぬ生身の男子としての高野恭平その人に他ならなかったのだ。ジャニーズ男子アイドルの熱狂的なファンによく似た感じのあるストーカーまりは、高野恭平の写真を使用した手製のポスターや抱き枕やクッションやカレンダーやウチワ等のグッズで自身の居住空間を埋め尽くしているが、アイドルではなく生身の人間としての高野恭平に改めて「本当の恋」を抱くに至った今、当人からは既に拒否された自身の思いを、再び当人に向けるわけにもゆかず、手製の高野恭平グッズに向けるしかなかった。高野恭平クッションを愛撫するその姿は、劇中で最も深く恐ろしかったと云わざるを得ない。
それにしても、高野恭平グッズで埋め尽くされた部屋に高野恭平その人が招かれている状況というのも、笑える反面、やはり極めて恐ろしい。
ところで、このドラマにおける見所の一つとして中原スナコの不気味な愛らしさを挙げる人は多いだろうが、私的には、遠山雪之丞の愛らしさの一寸した不気味さにも魅了されつつある。時々物凄く乙女風になっているようだ。手越祐也のあの独特な感じを、何と形容すべきだろうか。実によい。