シネマサンシャインMASAKIで打ち上げ花火三回目

 シネマサンシャインMASAKIにおいて夕方六時四十分から、映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を鑑賞した(三回目)
 三回目の鑑賞だったが、最も深く味わい得た気がした。やはり良い作品ではなかろうか。
 特に良いのは最後の花火。それは誤って打ち上げられ、ガラスのように破砕して舞い散った「もしも玉」。破片の中で輝いていたのは典道、なずな、祐介それぞれが願っていた選択肢。あり得た未来であり、ゆえに未成の過去でもある。そうした「もしも玉」に封じ込められていた未成の過去の思い出が割れて砕けて散りゆく最後の花火は、海の彼方のガラスの城の崩壊とともに、夏ならではの情熱と期待の終焉と見えて、郷愁にも富んで何だか涙が滲み出た。
 なずなが歌い出したとき出現するガラスの馬車とガラスの城の幻想という表現については世に批判もあるようで、なるほど吾人もまた最初は大いに戸惑ったが、今は完全に肯定している。なぜなら典道は、なずなの前では王子であると同時にマギ(賢者)でもあろうとしていたから。このマギは、ガラスの靴を履かせる代わりに、ガラスの馬車が空を駆けてガラスの城をめぐる世界を現出させた。興味深いことに、なずなもまたチェネレントラ(シンデレラ)であると同時にマギでもあったろう。冴えない典道を勇敢な王子に仕立てたマギに他ならない。
 チェネレントラであると同時に貴人(王子又は王女)でもあり、マギでもあるという多面性。これを典道となずなは共有していると見ることができる。しかし、なずなが普段から美少女として輝いていたのに比して、典道の輝かしい美しさは普段は完全に隠され、殆ど誰にも気付かれないでいた。その意味で典道の多面性の方が深い。なずなが自身の魅力と価値をかなり自覚できているのに比して、典道が自身の魅力にどこまでも無自覚であり、その美しさも官能性も天然そのままであるという点も含めて、なずなよりも典道こそが「エロい」と云える所以がそこにある。