野ブタ。をプロデュース第3話

日本テレビ土曜ドラマ野ブタ。をプロデュース」。プロデューサー河野英裕白岩玄原作。木皿泉脚本。池頼広音楽。岩本仁志演出。亀梨和也山下智久主演。堀北真希助演。PRODUCE-3(第三話)。
初回に既に呈示されていたように、主人公、桐谷修二(亀梨和也)には三つの顔がある。学校の人気アイドルとしての顔、それを演じることに疲れている顔、そして演じること全てから解放された自宅での優しい素顔。しかるに今回はさらに、人気アイドルとしての顔における明暗二面が描き出された。彼は面倒見よく頼り甲斐ある男子ではあるが、それは見方を換えるなら便利な男子ということでもあるのだ。学園のアイドルとしての彼のカリスマ性は王者として悠然と行動することを彼に許すのではない。むしろ殆ど奉仕者として皆のために平和と安逸と娯楽を提供することによって辛うじて与えられているものでしかない。彼の通う隅田川高等学校の文化祭「第45回隅高祭」での彼の異常な忙しさこそは、彼の圧倒的に高い人気と、その人気の脆弱性とを同時に物語っていたと云えるだろう。とはいえ冷静に考えてみれば、そもそも脆弱ではない人気など滅多にあるものではないのかもしれない。
今宵の物語の最後、自宅のあるビルの屋上で桐谷修二が一人、横になって夜空を見上げ、忙しかった一日の出来事を想起しながら感じていた不安感、空虚感、飢餓感は実にそうした彼の存在の形を要約するものに他ならない。彼が空しくも忙しく走り回っていた間、「野ブタ。」=小谷信子(堀北真希)と草野彰(山下智久・特別出演)の二人は、文化祭における2年B組の企画「お化け屋敷」を成功させるため、同じ2年B組の誰からも協力を得られない中でも地道に粘り強く努力し、結局は見事に成功させた。そうして二人が確かに何かを得たに違いないのを目の当たりにしたことで、桐谷修二も焦り始めた。小谷信子と草野彰が得たに違いないものとは、三人の生霊コマイ・ヤマモト・カネコ(坂本真・石川ユリコ・富川一人)が求めているものに違いない。ここで「野ブタ。」=小谷信子が前半に呟いた言を確認しておきたい。「楽しいことって、後になってみないと分からないんじゃないかな」。佐田杳子教頭(夏木マリ)と家原靖男校長(不破万作)によれば、三人の生霊は二十年もの昔の楽しかった思い出を再び味わいたくて毎年この時期「隅高祭」に出現すると云う。そして今年の「第45回隅高祭」では三人は桐谷修二に誘われるまま2年B組の作業に参加し、小谷信子と草野彰とともに「後になってみないと分からない」ような楽しみを分かち合った。でも桐谷修二は、横山武士(岡田義徳)&セバスチャン(木村祐一)のバンドや吉田浩(石井智也)の演劇部や上原まり子(戸田恵梨香)の団子茶屋をはじめ各方面からの誘いを断り切れなくて、肝心の「お化け屋敷」作りの作業には加わることができなかった。あらゆる場所に顔を出したが、どれ一つとして心から楽しめはしなかった。弟の桐谷浩二(中島裕翔)と二人一緒に文化祭終了後の「お化け屋敷」を歩いたのが唯一楽しい出来事だったろう。
小谷信子が「お化け屋敷」の出口の直前の鏡面に書いた言葉「今、手をつないでいる、その人と出会えたのは、キセキのような、かくりつです。光の中に出ても、その手をはなすことのないように」。この言葉に桐谷修二は衝撃を受けた。もともとは自分自身が吐いたはずのその言葉の、思いのほかの意味の重さと、それをこのような詩的な形に要約して突き付けてきた「野ブタ。」の精神の深さを感じ取って。一瞬の沈黙のあと、弟の桐谷浩二が兄の手を握り締めたのは見逃せない。もちろん兄弟愛の表現とも取れるが、むしろ兄の孤独感、空虚感に気付いた弟の優しさと解した方がよいと思う。

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