野ブタ。をプロデュース第6話

日本テレビ土曜ドラマ野ブタ。をプロデュース」。プロデューサー河野英裕白岩玄原作。木皿泉脚本。池頼広音楽。佐久間紀佳演出。亀梨和也山下智久主演。堀北真希助演。PRODUCE-6(第六話)。
表裏一体という語には二つの相対立する面が含まれている。表と裏が一体であることに特別な意味があるのは両者が相対立する二極であるからだが、しかも、そうでありながらも両者は一体でもあるのだ。相対立しつつも同時に一体でもあるところに表と裏との関係の妙味がある。そしてそもそもこの物語の主人公、桐谷修二(亀梨和也)こそは表裏一体の妙味を象徴する性格の人物に他ならないが、今宵の第六話では表裏の一体性とはどういうものであるかをめぐる断想的な思索が、「野ブタ。プロデュース」の二面性の問題を軸に展開された。
桐谷修二とともに「野ブタ。」=小谷信子(堀北真希)の「プロデュース」に励んできた草野彰(山下智久・特別出演)は、今回の作戦の予想以上の大成功によって「プロデュース」の二面性を知った。彼は小谷信子に対する自身の想いに少し前から気付いていたが、恐らくは自覚する以前から心のどこかで決定的に好意を抱いていたに違いない。彼が「野ブタ。プロデュース」計画に参加したのは、桐谷修二への好意とともに小谷信子への好意があったからではないだろうか。だが、もし彼らの計画が成功して小谷信子が新たな魅力を身に着けて学園の人気者にでもなれば、小谷信子は皆のものになってしまう。彼が明晰に述べた通り、プロデュースをするということは、皆の欲しがるものにするということだ。独占することは許されなくなるだろう。全て人気者とはそういうものだ。アイドル候補生が人気を得たとき昔からのファンが離れてしまいがちであることを想起しておこう。思えば現状における桐谷修二が、皆のものであって誰のものでもない立場にある。文化祭のとき端的にそれが露呈した。彼は草野彰や小谷信子と三人だけで過ごしているとき楽しそうに見えるが、あくまでもそれは裏の顔。表向きの彼は学園のアイドルであり、草野彰や小谷信子のものではなく、皆のものなのだ。小谷信子に愛を抱くからこそ「野ブタ。プロデュース」計画に参加した草野彰にとって、それが成功してしまうことは苦しみでしかあり得ない。楽しかったはずの計画がもはや楽しめなくなってしまったのだ。計画が変容したからではない。計画の表と裏、或いは明と暗が見えてきたからだ。
だが、表裏の一体性をもっと痛々しい形で思い知ったのは桐谷修二だった。今宵の第六話の冒頭、草野彰と一緒に登校する途上の彼が、朝の通勤時のサラリーマンの姿を眺めて、あんな大人にはなりたくない!と云ったのがその伏線だったのは云うまでもない。彼のこの思いは多くの少年たちに普遍的なものだ。例えば昨年春のTBS日曜劇場「オレンジデイズ」では成宮寛貴演じる翔平がそのような台詞を放ったが、もともと成宮寛貴自身がそのように発言したこともあり、脚本家の北川悦吏子はそれを踏まえて翔平にその台詞を云わせたらしい。ともかくも桐谷修二のあの言は少年であれば誰もが抱く類の思いの表現だ。だが、この物語は現実の奇妙な恐ろしさを、さりげなくも冷酷に、彼に突き付けた。「野ブタ。プロデュース」計画の副産物として金銭を得たことで、彼は次第に当初の目的よりも金銭を儲けることの方に夢中になってしまっていたが、それを見た彼の父、桐谷悟(宇梶剛士)は「お前、サラリーマンに向いているかもよ」と喜んだのだ。一応これは褒め言葉だ。でも、疲れ切った無個性なサラリーマンになんかなりたくない!と思っている少年にとって、これ程にも痛い攻撃はない。己の最も嫌っているものに、既に己が似ているなんて、どうして認められようか。
しかるに、もっと痛々しい事態がそのあとに待ち構えていた。またしても「野ブタ。プロデュース」計画に邪魔が入った。学園のアイドル桐谷修二が総力を挙げて盛り上げた一大流行がそれによって呆気なくも終息しつつあった。ここで彼は奮起してしまった。「負けたくない!」との思いから、それまでに得た十万円もの利益を全て投じて流行の「ニューヴァージョン」を盛り上げようとしたが、上手くは行かなかった。云わば時代は変わっていたのだ。学園の流行の移ろい易さは既に幾度も描かれてきた。落書きをした制服。小谷信子や上原まり子(戸田恵梨香)についての悪い噂話。何れも一時は学園の話題を独占したが、長続きはしなかった。今回の流行も同じことだった。そのことに桐谷修二は気付いていなかった。終わってしまった流行を何とかして再燃させようとして必死に頑張ってしまっていた。誰がどう見ても彼は空回りしていた。今までにはなかったことだ。彼は何時もクールで芸達者なアイドルを演じ、学園の皆はその限りで彼をアイドルに祭り上げていた。でも今の彼は全然クールではなかった。彼の側近だったはずの吉田浩(石井智也)や谷口健太(大東俊介)さえもが笑いものにする程に彼は必死だった。これは彼のアイドル性を剥奪するに足る致命的な状況ではないか。彼自身がのちに嘆いたように、あのときの彼は確かにカッコ悪かったろう。頭を抱えて嘆いていた彼の姿の痛ましさが、失われたものの重さを物語っていた(無論ここでの演者の表現力を評価しておく必要がある)。また失敗しつつある事業を好転させるため必死になるあたりが既に、カッコよさを気にしていてはやってゆけないサラリーマンの生活に実は重なっているのかもしれない。
ともかくも、桐谷修二のアイドル性は彼自身の緻密な「プロデュース」により築き上げられたものであり、小谷信子のための「プロデュース」もまた彼のそうした経験とその結果としてのアイドル性とを前提したものであるはずだった。それなのに、今や「プロデュース」に夢中になることは逆にその基盤の全てを崩壊させつつある。プロデュースの過熱とその基盤の崩壊。相反する事態がここでも地続きであり一体であることを知るのだ。
とはいえ表裏は一体なのだ。全てが喪失だったわけではない。失うことと得ることは表裏一体にあるのかもしれない。佐田杳子教頭(夏木マリ)は「金には裏と表がある」と述べ、コインの二面の何れが表・裏であるかを人々が知らないのと同じように物事の表裏を取り違えている者が最近は多いと語った。桐谷修二は今回の事件を通して、物事には表裏の二面あり、しかも裏こそが表なのかもしれないと知ったようだ。「野ブタ。」=小谷信子は、彼の計画がたとえ経済行為としては失敗だったとしても、それ以上に幾人かの心に何かを残し得たなら充分に成功ではないかと思うことを語った。恐らくは他の誰よりも小谷信子自身が何かを心に得ていたに相違ないが、その思いは、幾らかは桐谷修二の心にも達したことだろう。だからこそ彼にも、数日前まで無個性に見えていたサラリーマンにも「悔しかったり、嬉しかったり、誰かを大事に思ったりしながら働いているのかもしれない」裏面があり、しかも野心や挫折、栄光、愛と情熱に満ちたその裏面こそが表側であるのかもしれないと想像するだけの余裕が芽生えたのだろう。彼がサラリーマンたちの後姿に感じ取ろうとしたそうした裏面は、そのまま今の彼の心境でもあるかもしれない。「悔しかったり、嬉しかったり、誰かを大事に思ったり」。そうだ。まさしく今回の騒動を通して彼の抱いた感情なのだ。ただし「誰かを大事に思ったり」の点だけは未だ明確な形を取っていなくて潜在しているに過ぎない。そこに今後の激動の気配がある。最後の草野彰の過激な言が宣戦布告であるならそれは桐谷修二にもこの点で内省を促し得るだろうか。

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