河井継之助・駆け抜けた蒼龍

日本テレビDRAMA COMPLEX年末大型時代劇「河井継之助・駆け抜けた蒼龍」。金子成人脚本。松原信吾演出。稲川明雄歴史監修。松竹京都映画制作協力。日本テレビ&松竹制作。中村勘三郎主演。夜九時から二時間半の特別番組。
この一年間の日本テレビのドラマ制作における充実を象徴するかのような作品であり得る。何より題材がよい。天下のNHKが「新選組!」のような腑抜なドラマで満足していたのに対し、このドラマでは、激動の幕末を真に真剣に生きたのはどのような人々であったかを浮き彫りにしているからだ。
「西の龍馬・東の蒼龍」として坂本龍馬と並び称される「北陸の龍」、越後長岡藩家老、蒼龍窟河井継之助秋義(中村勘三郎)は、現実に通じながらも義を貫いた政治家であり、漢学ばかりか洋学にも通じて広く永い視野に立つことのできた屈指の知識人でもあったが、その知の根本には陽明学があったとも伝えられ、その意味では春日潜庵・梅田雲浜頼三樹三郎や南洲西郷隆盛とも「誠意」の思想を共有していたとも云われる。間違いなく幕末の最も偉大な英雄なのだが、実は長岡の人々の間には今なお彼に対して複雑な思いがあると聞いたことがある。彼が徒に義を貫いたばかりに長岡城下は灰燼に帰したという側面が確かにあり、そのことへの恨みが今なお消えないというのだ。そうなのかもしれない。歴史を評価することの難しさを物語る。
十時十四分頃にあった河井蒼龍窟と小林虎三郎佐野史郎)との論争が既に、そうした意見の相違の存在を見事に明るみに出していた。義を曲げて会津を裏切ってでも城下の民の生活を守るべきではないのか?という小林虎三郎の主張には間違いなくもう一つの正義があるのだ。そして官軍の攻撃により城は陥落、城下町も壊滅に至ったとき、蒼龍河井継之助が、不本意にも民に負わせた苦しみを思い、己を呪わざるを得なかったのは、彼の決断が、親友小林虎三郎の猛反対の意をも理解した上での、ギリギリの選択だったからだろう。ちなみに今泉鐸次郎によれば小林虎三郎は長岡藩の儒官で病翁と号し、吉田松陰と並んで佐久間象山門下の二虎と称されたと云う(高村真夫編「小山正太郎先生」昭和九年・不同舎旧友会刊)。
ところで、河井蒼龍窟と小林虎三郎論議の場面に関し、我々美術愛好家にとって見逃せないのは蒼龍窟のもう一人の親友、小山良運(火野正平)に他ならない。長岡藩御典医で、漢方医でありながら洋学にも通じていた小山良運は、かの明治洋画の元老、先楽小山正太郎先生の父君。小山正太郎東京高等師範学校図画科(現筑波大学芸術専門学群)の洋画教授として美術教育史上に重要な役割を果たしたのと同時に、画家としても風景画「濁醪療渇黄葉村店」(ポーラ美術館蔵)のような道路山水の傑作を遺したことで再評価されている。明治の美術界における彼の高潔、勇敢な言動は全て河井蒼龍窟の影響を示すものとも云われる。