わたしたちの教科書第十一話

フジテレビ系。ドラマ「わたしたちの教科書」。第十一話。
脚本:坂元裕二。音楽:岩代太郎。主題歌:BONNIE PINK「Water Me」(ワーナーミュージックジャパン)。プロデューサー:鈴木吉弘&菊地裕幸。制作:フジテレビドラマ制作センター。演出:葉山浩樹。
雨木音也(五十嵐隼士D-BOYS])は、雨木真澄(風吹ジュン)にとっては単に溺愛する吾が子であるだけではなく、真に魂の分身でさえあったようだ。子どもたちを愛し、教育への情熱に燃えて、そしてイジメを決して許せない雨木真澄は、公立学校の幹部教職員としての立場のゆえにそうした己の誠の思いに忠実ではあり得ないが、長男の音也はそうした母の苦悩を理解し、何よりもイジメに対して彼自身も抱く正義の怒りを決して誤魔化すことなく行動してきたのだ。彼は、これまで二度の正義の行動を通して、一つの厳粛な真実を実証し、愛する母に突き付けた。イジメを解決するためには流血の制裁のほかに道はないということを。「ぼくが処刑する。悪いいじめっこをぼくが処刑する」。母の真澄がその真理性を深く受け止めたのは、溺愛する吾が子がそのように主張するからではなく、自ら教育者としての立場からイジメ問題に取り組んだことが逆に学校を危機に陥れた余りにも重く苦い経験を持つからに他ならなかった。私論によって公論を害するような愚劣な思考は、流石、厳正な雨木副校長の採るところではなかった。
学校教育者=雨木副校長は、今日の日本において学校の真の敵が世の言論と親たちに他ならないことを余りにも深く理解していた。かつて自身の勤務する学校のイジメ問題を解決するため、その事実を公表したところ、新聞やテレヴィ等の報道各社、言論機関が一斉に学校批判、学校叩きの運動を展開し、結果、問題解決どころか全ての平和を失って学校としての機能の不全、事実上の学校の崩壊を出来した経験があったのだ。多分その騒動には子どもたちの親たちも便乗していたことだろう。学校がイジメの事実を認識し己の過ちを認めることは、世の無責任な言論・報道機関や、愚かでヒステリックな親たち、売名にのみ熱心な議員たちの前に恰好の餌食として学校を差し出すことにしかならない。彼等は学校の問題を共有し、協力して問題を解決しようとはしない。問題を発生させた学校を叩くことしかしない。そのような血に飢えた連中の学校イジメから「学校を守る」ことが、今や学校教育者=雨木副校長の使命と化した。そうなれば当然、イジメの解決へ向けて積極的に行動することは学校にはできない。だが、正々堂々イジメ問題に取り組んでゆく道がそもそも閉ざされているなら、残された道は一つしかない。正義に燃えた誠意ある人の、牢獄行きをも覚悟した一個人の責任における否応なく力ずくの、流血の制裁しかないだろう。雨木音也の採る道がそれだった。
複雑な立場に立つ雨木副校長。この正真正銘の近代民主主義的な学校教育者に対して教育委員会教育長は卑劣だった。この役人は、今回の大事件をめぐる副校長の「公務」の全てを、あたかも雨木真澄の私的な信念に基づくものであるかのように語ろうとした。無論あれが私的な信念であるはずがない。あくまでも公務なのだ。教育長の狙いが己の保身にあるのは明白だ。瀬里直之(谷原章介)はそれを見逃さなかったようだ。