わたしたちの教科書における雨木音也(五十嵐隼士)について補遺

ゆえに今宵はTBS金曜ドラマ特急田中3号」最終回を完全に見逃した。しかも夜中に目を覚ましてしまい、仕方なくテレビ朝日系「爆笑問題の検索ちゃん」を見ながら昨夜放送「わたしたちの教科書」に関し、何時になくテレヴィドラマ批評ブログ数箇所を拝見したところ、少々気になる記述が目立った。
テレヴィドラマ「わたしたちの教科書」第十一話において描かれた雨木音也の歪んだ正義。彼の行動を支えるイジメ観について「イジメっこ一人を消せばイジメはなくなる」と解する人々がおられるようなのだが、多分そうではない。そんなにも単純なイジメ観をあのドラマ制作者が抱いているわけでもないだろう。吾が理解するところ、雨木音也の流儀は、流血の制裁の恐怖によって子どもたちを黙らせるということにある。これは学校教育者には決して真似できない流儀だ。
ここにおいて考えるべきは、そもそも今日のこの国が子どもたちに制裁を加えようとはしないことだ。他人の物を盗んでも、他人を傷付けても、そして殺しても、子どもたちには罪はないと考えられている。或いはそう考えなければならないことになっていると考えられている。子どもたちも己等には罪はないと思い込んでいるか、或いは思い込んでなくとも、そう考えてよいことを知っている。仮にこの国が子どもたちの犯罪や犯罪的な行為に対しても厳しい態度で臨み得るなら、雨木音也のような怪物に出る幕はなかったろう。
確かに彼の正義感は稚拙なものであるだろうし、彼はガキであるだろう。だが、イジメを子どもの所業として見逃すのが大人だろうか。思うに彼は、教育学や心理学の美名の下に善悪の判断を放棄してしまった近代社会に対し、幼稚な、極端な形においてではあれ、強烈に異議を申し立てているのだ。その激しい訴えは、それ自体はもちろん容認できないにせよ、少なくとも傾聴には値しないだろうか。雨木音也という人物を世の凶悪犯罪少年と同じようにしか見ない者は物事を単純化し過ぎていると云われざるを得ないだろう。