雨木音也と鬼

週一回で三ヶ月間にわたり放送されるテレヴィドラマについて毎週その都度その感想や解釈を書くことは少々度胸を要することだ。なぜなら作品の意味は作品の全体から読まれるべきである以上、途中までの段階で解釈を提案することは未来の予測でしかあり得ないからだ。木曜の夜のドラマ「わたしたちの教科書」について昨日ここに書いた吾が読みについても、決して自信があるわけではない。外れているのかもしれない。ともあれ、昨日ここに書いた解釈における雨木音也(五十嵐隼士)の「恐怖」について、批評の鋭さと細やかさに定評あるkorohiti氏(http://d.hatena.ne.jp/korohiti/20070623/p2)が「なまはげ」の比喩を与えてくださったのには敬服のほかない。驚くべく見事な比喩で、吾が意を極めて深く抉り出してくださった。思うに、仮面ライダー響鬼ではないが、世の中には鬼が必要であるのかもしれない。
鬼は人々に恐怖や害悪をもたらすだろうが、反面、善悪や美醜の別について反省を促す者でもあり得る。ここで想起するのは木彫の巨匠、平櫛田中の傑作「転生」のこと。前田青邨が描いた平櫛田中翁の肖像画「転生」にも登場するあの奇妙な鬼の像は「生ぬりっ子は鬼も喰わない」という教えを形象化したもの。鬼は子どもを喰うような怖い存在だが、何事にも中途半端な子どもは、鬼にとっては「生ぬるい」ので、不味くて吐き出されてしまうと云う。鬼にまでも嫌われる程「つまらない」人間であってはならぬ!という教えなのだ。鬼の存在が子どもたちを柔らかく律することもあると知る。