わたしたちの教科書最終話

フジテレビ系。ドラマ「わたしたちの教科書」。第十二話=最終回。
脚本:坂元裕二。音楽:岩代太郎。主題歌:BONNIE PINK「Water Me」(ワーナーミュージックジャパン)。プロデューサー:鈴木吉弘&菊地裕幸。制作:フジテレビドラマ制作センター。演出:河毛俊作
今宵のこの何とも落ち着かない最終話については賛否両論のあるだろうことが避け難い。しかし一つ云えることは、解読すべきことは先週までの十一話で殆ど尽きていたということだ。ゆえに今宵のこの話の目的は、(1)残された謎としての、死を選択するとは思えない様子だったはずの藍沢明日香(志田未来)が転落した理由(或いはむしろ原因)は何だったのか、その事実関係を最終的に正確に解明すること、そして(2)第一話において藍沢明日香の提起した問いを再提起し、物語の全体に結びの印象を与えることにあったと考えてよいだろう。
とはいえ気になるのは、雨木音也(五十嵐隼士D-BOYS])という登場人物の、この物語における存在の意味についてだ。この物語において彼の果たした役割は何だったのか?という点については大いに論議もあるだろう。なにしろ彼は途中から不気味に登場し、やがて存在感を増し、第十一話において物語の鍵を握ったかと思わせた挙句、今宵は呆気なく退場したのだ。あの大事件のあと彼がどうなったかも定かではない。そのゆえに彼の登場の意義を捉え損ない、彼の役割を過小評価する視聴者がいたとしても不思議ではないとは思う。
しかし云わなければならない。彼こそが物語の意味を担っていたのだと。なぜなら彼は、学校教育によるイジメの解決の不可能性を、視聴者に対し厳粛に突き付けているのだからだ。
そもそも近代の日本における学校制度(=学級制度)自体がイジメの原因なのであるから、そこにおいてイジメを解決することはできるはずもない。学校=学級のある限りイジメはなくならないだろう。本来なら学校の外部で親が子どもを正しく導いてゆくべきだろうが、親こそが最も堕落した存在である今日、それはあり得ない。不幸の循環を断ち切る道があるとすれば、学校=学級の閉鎖空間とは異質な力の出現によって、その力の恐怖によって子どもたちを制圧する以外にはないのかもしれない。雨木音也がそれだった。
でも所詮それは学校=学級とは異質であり、従って学校=学級に存在することを許されない。そうであれば学校は何時までもイジメの不幸を抱え込んでゆくほかない。実際、あんなにも大きな事件を経験した喜里丘中学校においてさえも今なおイジメがなくなってはいないことを、加地耕平(伊藤淳史)が述べていた。取り組み方に関しては飛躍的な改善があったらしいが、それでもイジメがなくなることはない。当然だろう。近代国家権力の創出した学校=学級制度こそがイジメの原因に他ならないからだ。
要するに、この物語において雨木音也という登場人物は、「世界を変えることはできない」ことを証明する大役を担っていたのだと考えられる。
そうなのだ。世界を変えることなんかできはしない。かつて積木珠子(菅野美穂)が言い放った通りだ。できるのは、この変わることのない世界の中で何とか生き延びてゆけるように自身を変えることだけだ。

<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)