働きマン第十話

日本テレビ系。水曜ドラマ「働きマン」。
原作:安野モヨコ。脚本:吉田智子。主題歌:UVERworld浮世CROSSING」&働木満(沢村一樹)「働きマン音頭」。演出:佐久間紀佳。第十話。
松方弘子(菅野美穂)の父、松方征治(小野武彦)が娘との待ち合わせをしていた居酒屋に、デスクの成田君男(沢村一樹)と編集長の梅宮龍彦(伊武雅刀)が来店し、松方弘子について「とても結婚できそうにないから父親も心配しておられるだろう」等と語って笑い、それを耳にして征治が慌てていたところ、既に征治のことを知る田中邦男(速水もこみち)が合流してそこにいるのが松方弘子の父であることをデスクと編集長に紹介するという展開は、よくありがちではあるものの面白かった。序でに云えば、伊武雅刀小野武彦沢村一樹のような役者が揃った中に配すると速水もこみちは俄然よい感じに思える。彼には意外に若者たちの群像劇が似合わない。モコミチにはオジサン集団を合わせるべし!と思う。
トンネル崩落の事故の現場で、負傷し苦しんでいる人々や救援のため働いている人々。それを取材する松方弘子をはじめとする「週刊JIDAI」編集部員や、その他の多くの新聞やテレヴィ等の報道記者たち。だが、さらにその背後には、現場の様子を携帯電話のカメラで撮影する野次馬たち。松方弘子は彼等こそが現在の日本の社会を映していると瞬時に感じ取り、カメラマンの菅原文哉(津田寛治)に対し、彼等の姿をも撮影しておいて欲しいと依頼した。菅原文哉も彼等の姿を見て瞬時にその意を感じ取り、撮影を始めた。その真剣な表情は、この野次馬の存在こそが事件であることを捉えたいとの思いを物語っていた。
確かに、誰もが何時でもどこにでも携帯電話を携帯していて、そしてそれにはカメラも備わっていて、何時でもどこでも何でも、眼前にあるどんな事象をも直に凝視、観察するのではなく、撮影しておこうとする風潮は、今日では有り触れていようとも過去には存在したこともなく、恐らくはそれ自体「事件」に相違ない。とはいえ事件の現場で携帯電話カメラを構える野次馬の群を松方弘子自身が「まるで取材記者のように」と形容していた通り、あの携帯電話カメラマンの野次馬たちと報道機関の記者たちとを区別することは本質的には難しいし、もっと云えば、新聞や雑誌の読者やテレヴィの視聴者と、あの携帯電話カメラマンたちとを区別することも本質的には容易ではない。
そこを何とか区別しようとすれば、哲学的な思弁の領域へ沈潜せざるを得ないだろうから週刊誌の記事にはならないに相違ない。逆に、報道と野次馬とを区別することはできないという視点を取れば、現代社会批判の記事が上手いこと仕上がるかもしれないが、自己批判の義務をも免れ得ないだろう。
それならば松方弘子はどのような視点に立って記事を書いて、編集長に認められることを得たのだろうか。推測するに、あの携帯電話カメラマンの群衆という「事件」を通して、報道の本質を野次馬と見た上で、その本質を糊塗することなく引き受けて追求し、野次馬たちが捉え損なっていることをも捉え切る真の野次馬として吾等「週刊JIDAI」あり!ということを主張してみせたのではなかったろうか。