働きマン最終話

日本テレビ系。水曜ドラマ「働きマン」。
原作:安野モヨコ。脚本:吉田智子。主題歌:UVERworld浮世CROSSING」&働木満(沢村一樹)「働きマン音頭」。演出:南雲聖一。第十一話=最終回。
老舗の出版社「豪胆社」の週刊誌編集部に勤務する松方弘子(菅野美穂)が、新聞社の刊行する週刊誌の編集部に引き抜かれることになり、その決定に向けた儀式としての面接試験を受けようとしたとき、取材中の痴漢事件について新展開のあることを緊急の電話で知らされ、面接を捨てて職場へ戻るという展開は、責任ある社会人の正しい姿を表現していたと云える。
この痴漢事件は、実は冤罪事件だった。自称「被害者」の女は所謂「痴漢メイカー」で、金目当てに痴漢を捏造していた。そのことを突き止め、証明した週刊「JIDAI」編集部は、無実の「加害者」だった小学校教師の人生を救い、彼を慕う大勢の子どもたちを喜ばせ、彼等から感謝をされた。こうして戦い済んで打ち上げのため編集部一同、会社をあとにしたとき、松方は、夜の高層ビル群の窓の多くにまだ明かりが灯っているのを見て、不図「なぜ人は働くのか?」を問い、これに編集長の梅宮龍彦(伊武雅刀)は「自分のため」「生きてゆくため」と云った。
この言はどのようにも解釈できるだろうが、手段と目的との階層性と不可分性はそれぞれ認識されなければならない。生きてゆくという目的のための、あくまでも手段として働くということがある以上、働くことがそのまま生きてゆくということである必要はない。換言すれば、仕事がそのまま生き甲斐である必要はない。ゆえに、やりがいのない仕事であっても、目的のための手段として受け容れ得る限り、拒否する理由にはならない。さらに同時に、働くことが生きてゆくことのための手段であるなら、その手段を放棄することは、それによって実現されるべき目的としての生きることをさえ放棄することにもなりかねない。生の向上(「よく生きる」)のための選択肢として、もちろん「転職」も想定できるだろうが、それを断行するために眼前の仕事を放棄することが許されるはずがない。眼前の仕事を疎かにしてでも己の人生観を優先することのできる人間というのは、結局のところ、生きてゆくという目的のために働くという手段を無理に選択する必要のない人々、即ち、働かなくとも生きてゆける特権階級の人々に限られることだろう。だが、そんな連中だらけでは社会は崩壊せざるを得ない。