昨夜放送エジソンの母第五話における美術教育問題について再び

昨夜放送のテレヴィドラマ「エジソンの母」第五話における児童画教育の問題について、同ドラマ公式サイトには長大な解説が載っていると知った。読んでみた。美学芸術学を専門としたこともある哲学・論理学の教授の書いた誠に素晴らしい解説文ではあるが、少なくとも、あのドラマにおける美術教育学者=松平喜代美(片桐はいり)教授の言動についての解説としては無効だ。論点をはぐらかした殆ど見当違いなことを延々書き連ねているだけとも云える。哲学者らしからぬ解説文であると思う。
大人の美術については作品そのもののよしあしを見て、児童の図画には作者の心身の健康状態を見るという立場がそこにおいて述べられているが、果たしてそれを首肯できるだろうか。
ここで見落としてはならないのは、あの美術教育学者が「よい絵」「悪い絵」という判定の語を明確に使用したことだ。
そもそも、児童画における「よしあし」が作者である児童の心身の健康状態の「よしあし」であるとすれば、作品そのものを「よい」「わるい」と評価すること自体が不適切な行為ではないか。なぜなら、そう考えた場合の児童画とは、所詮は心身の健康状態の徴候に過ぎないのであり、健康状態を測るための材料でしかないのである以上、教師に必要なことは児童の健康状態の診断と治療でこそあれ、診断の材料としての作品それ自体の評価ではあり得ないからだ。例えば、健康を害した人の身体を見て「あなたの身体は悪い身体です」と「評価」することは適切であり得るのか?と云えば、不適切極まりないと云わざるを得ないだろう。必要なことは評価ではなく、治療なのだ。しかも児童画に関して必要な治療の対象は児童の心身でこそあれ画それ自体ではないのだ。ゆえに、この立場の考え方は、教育学上の「評価」の方針としてそもそも首肯できる代物とは思えない。
しかるに、仮に「児童画には作者の心身の健康状態を見るべし」という立場を首肯したとしても、やはり問題であるのは、作者の心身の状態を作品中に認めることが果たして可能であるか否かという点だ。「統計学」なんか持ち出しても意味がない。なぜならその説明方式は、児童の作品が児童の心身の状態の徴候に他ならないことを前提しているからだ。だが、それは余りにも素朴な見方ではないか。少なくとも今日の、マンガやアニメ等の、洗練され磨き抜かれた濃厚なイメージを日々浴びるように享受している児童が、自ら作成するイメージに何の意図も加えないことは考えられようか。しかも、似た状況は実は二三十年前には既に出現していたろうとも思う。
また劇中でも言及されていた通り、大人の期待に沿う恰好で自己を演出してみせる程度の狡賢さを、子どもたちは普通に持ち合わせている。そうした意図的な不純なものを素直な純粋なものから判別することは容易ではない。劇中のあの美術教育学者=美術評論家はそれを瞬時に判別し得る目利きであるという設定だろうが、目利きというものが不安定な代物であることは、まともな美術史学者であれば誰でも知っていよう。
稀代の目利きと云われる程の美術史学者でも、作品の解釈に際しては幾つもの根拠を持ち出して何とか論証しようとするものだ。なぜなら、そうしなければ説得力を持ち得ない場合が多いから。例えば、日本美術史上屈指の名品である国宝「上杉本洛中洛外図屏風」を狩野永徳二十三歳の真作(足利義輝により発注され、織田信長より上杉謙信へ贈られた)として論証するまでに一体どれだけ多くの専門家たちの論議が尽くされてきたかを見るがよい。
劇中のあの美術教育学教授は、家族を描いた二枚の児童画を取り上げて、一方には楽しさが見出され、他方にはそれが見出されないことを指摘して、前者を「よい絵」、後者を「悪い絵」と判定した。児童画に対する稀代の「目利き」としてそう断言したのだろうが、その判断の根拠を明確に言説化できるだろうか。美術史学者は常にそのような努力を強いられているが、美術教育学者はそのような努力をしないで済まされるのだろうか。所謂「説明責任」を問わざるを得ない。児童の図画において楽しさが表出されているかどうか?というのは、本当に作者の内面の問題に尽きるのだろうか。絵に楽しさが表れているかどうかの差は、案外、色や線の用い方や形の作り方のささやかな差でしかないのではないか。しかるにそうした差というのは心身の健康の問題である以前に、先ずは表現上の工夫の有無の差ではないのか。健康性の表出か、意図された表現かを判別することの可能性、妥当性について、説明責任を果たしてもらわなければならない。
児童画は児童の内面の単なる鏡であり得るのか否か。そのように仮定することは、児童の内面を知りたい教育者や親にとっては魅力的であるかもしれないが、その真理性はどのように証明され得るのか。(二月十日午前六時頃記之、同午後二時頃一部加筆。)