エジソンの母第五話

TBS系。金曜ドラマエジソンの母」。
原案:山口雅俊。脚本:大森美香。音楽:遠藤浩二。製作:ドリマックス・テレビジョン&TBS。第五話。演出:波多野貴文
今週の話も面白かったのは無論のことだが、文部小学校の岩井雄三(田中要次)校長を訪ねてきていた美術評論家で児童画教育の第一人者でもあると云う大学教授の松平喜代美(片桐はいり)の人物像、指導・教育の方法については色々考えさせられる。そもそも美術教育者・教育学者が児童生徒の絵を「よい絵」と「悪い絵」に分け隔てようとすること自体が現今あり得ないことは今さら云うまでもない。しかし松平教授が児童の絵に対して徒に子どもらしさを求めていたのは実に明確に今日の美術教育・図画工作教育の戯画であり得よう。
思うに、松平教授には二つのイメージが結び合わされていた。一つは、典型的な近代美術教育者・図画工作教育者のイメージ。もう一つは、それに対する過激な批判者としてのイメージ。これら二つの(相反するようでもある)二重イメージの複合体として、あの厄介で迷惑な化け物が出現したのだ。
あの美術教育学教授は、一方においては、「子どもらしさ」の表出の有無や量によって児童生徒の絵を批評し判定するが、他方においては、「子どもらしさ」というものが本質的には「大人側が子どもに期待する美質」に過ぎず、子どもたちが往々それを知った上で敢えてその期待に応えようと努めるものであることをも弁えている。単純に考えるなら前者は子どもらしさの絶対的な肯定であり、後者は事実上それの否定であるはずだが、あの教授は両者を云わば弁証法的に統合してみせる。その手法は見事でさえある。なにしろ、子どもらしさを意図して演出したかに見える作品を判別し、「悪い絵」と判定することによって、逆に、純粋に子どもらしさを表出した絵を「よい絵」として浮かび上がらせようとするのだからだ。ここでの価値判断は全て「子どもらしさを自由に存分に表出し切れているのか」否かを判定する言説によって表現されるわけで、換言するなら「自由度の高さこそが美の源泉である」とでも定式化できるのだ。だが、「美とは自由の形象化である」とか云う類の命題にはどの程度の真理性があるだろうか。そこに説得力はあるのか。
明治の前期、小山正太郎や浅井忠のような美術家たちは油彩画・水彩画等の洋風美術を「洋風技術」「洋技」と称し、己等を「技術家」と認識し、誇りを抱いていた。無論その技術の作品には「趣味のよさ」とでも云われる品質(美や品位、道徳性等)が備わっていなければならない。しかし技術の問題であれば厳正な評価・審査が行われ得る。誇り高き武士の子として、文人士大夫であろうとした彼等は、国家有用の人材を育成するための事業の一つとして美術を志したのだ。
しかし彼等よりもあとに出てきた美術家たちはそうした古風な考えを「前時代の夢を見続ける」守旧派として一掃し、新たに、まさしく自由の表出の場として美術を捉え直した。日本における美術教育は基本的にその方角へ路線変更し、今日に至っている。松平喜代美教授はその権化のような人だ。
しかるに、このような美術観に立つ美術教育において、果たして評価・判定は可能だろうか?恐らくは可能ではないだろうし、もし可能だとしても意味があるとは思えない。なぜなら自由の度合いを評価・判定することに意味があるとは思えないからだ。自由であれば「よい」と云われ、自由度が足りなければ「悪い」と云われるとは、何と不自由な話だろうか。要するに自由度の判定ということ自体が自由を害するものである以上、意味があるはずもない。
松平教授の美術教育説を聴いて鮎川規子(伊東美咲)が「自信がない」と云ったのは当然なのだ。勉強不足の露呈ではない。勉強しても理解できる話ではないのだ。松平教授に対する花房賢人(清水優哉)の反撃に久保裕樹(細田よしひこ)が声援を送ったのも正直な気持ちの「自由な表出」であると云えるかもしれない。