新番組=ごくせん第一話

今宵からの新番組。
日本テレビ系。開局55周年記念番組。土曜ドラマ「ごくせん」。
脚本:江頭美智留。音楽:大島ミチル。主題歌:Aqua Timez「虹」。挿入歌:高木雄也「俺たちの青春」。プロデュース:加藤正俊。制作協力:日テレアックスオン。演出:佐藤東弥。第一話(三十分間延長による特別拡大版)。
物語の主な舞台は、赤胴学院高等学校3年D組。そこは同一学年の全生徒中の問題児を全て集めた学級。一年生時から二年生時にかけて問題児と認定されてしまった生徒たちを、進学や就職を控えた大事な最終学年である三年生への移行時に一挙に集めたらしい。一年生から二年生への移行時には、それは行われなかったようだ。そうでなければ最大の問題児二人が三年生になるまで別々の学級にいて一緒にならなかった理由を解し得ない。ともあれ、かつて「3年B組金八先生」で問題提起された所謂「ミカンの方程式」の考え方によるものか知らないが、一年生時から二年生時にかけて各学級に紛れていた不良少年たちが三年生時に至り一ヶ所に集められたことで「3年D組」=「3D」という巨大な闇が突如出現し、結果、どんな教師も手を付けられない程の事態が出来したのだ。
そうして作られた問題児だらけの学級を統治するため、かつて白金学院や黒銀学院で実績を挙げた優秀な教師が投入された。赤いジャージを身につけた期待の新星。それは誰か?…と期待させたところで現れたのは(ドラマ「ごくせん」連作に愛ある視聴者にとっては逆に期待通り)、猿渡五郎(生瀬勝久)だった。赤ジャージを着用したところのみか発言の内容も一々、彼のライヴァルとも云えるあの「極道」の教師の物真似ばかり。見事な猿真似。彼があの人をいかに愛し、頼りにしているかを物語る。ここが楽しい。
しかし物真似は本物にはなれなかった。猿渡教頭は3Dの連中に投げ飛ばされて放り出され、初日で敗退した。そんな彼に対し、評判に違う無能振りを厳しく責めたのは理事長の赤城遼子(江波杏子)。
真黒な服に身を包んだ赤城遼子理事長の風情は、三年前の夏の土曜ドラマ女王の教室」における悪魔のような鬼教師=阿久津真矢を連想させたが、威圧感においてはそれをも凌駕し得るかもしれない。かつて黒銀学院の理事長兼校長、黒川銀治(井上順)には笑顔の奥に陰湿な恐ろしさが窺われたが、赤城遼子理事長の場合、ファシスト風のカリスマ性と厳格性が、見るからに恐ろしい。
赤城理事長から、前評判に違う無惨な失態を責められ、解雇の可能性をも冷徹に告げられた猿渡教頭は、起死回生を図り、内心では愛してもいるあのライヴァル教師、「極道」先生(ごくせん)、「ヤンクミ」こと山口久美子(仲間由紀恵)を赤胴学院3年D組の担任教諭に迎えるべく、沖縄へ飛んだ。
…という形で始まったテレヴィドラマ「ごくせん」の第三作目。
日本テレビ系のドラマ「ごくせん」はその第一作目が二〇〇二年四月から七月にかけて放送されて大人気を博し、二〇〇五年一月から三月にかけてその第二作目が放送されて驚異の高視聴率を記録し、第一作目をも凌ぐ大人気を博した。それぞれの作とそれぞれの出演者たちに熱心なファンもいるわけだから、第三作目の今作は当然それらとの厳しい比較論を避けることができない。第二作目は常に第一作目と比較されるが、第三作目は第一作目のみか第二作目とも常に比較されざるを得ない。そうであれば云わば構造的に根本的に、肯定的に評価されることは容易ではないと云うべきだろう。
だが、それでもなお、ドラマ「ごくせん」の物語の構造それ自体が、娯楽としてよくできていることを再認識してよいと思う。実際、楽しかった。
確認しておくべきは、3年D組における集団性の構造が大きく変化してきたこと。これはヤンクミの活躍の仕方をも左右し得る。ヤンクミは不良男子たちと対峙するとき、何時も先ずは集団の頭が誰であるかを見分けようとする。第一作目における白金学院では沢田慎松本潤)が皆を圧するカリスマ性を有していた。卒業式の直前には、沢田慎に反感を抱いた野田猛(成宮寛貴)を新たな頭にして大石雄輔(上地雄輔)や堀部亮治(森本亮治)等が第二の集団を形成するという波乱もあったが、結局は沢田慎とともにヤンクミを慕う構造は動かなかった。他方、第二作目における黒銀学院では、集団を統率するのはあくまでも矢吹隼人(赤西仁)だったが、同時に、矢吹と付き合いの長い真の親友である小田切竜(亀梨和也)が真の実力者として全体を圧する存在感を示した。ここでは、頭が二人いるかに見えて実際には(流行歌「青春アミーゴ」の歌詞ではないが)二人は一つだった。今回はそうではない。
緒方大和(高木雄也Hey! Say! JUMP])と風間廉(三浦春馬)は、高校一年生時から二年生時にかけて別々の学級に属していた。そしてそれぞれが覇を唱えていた。それが今、3年D組に合流し、何れが覇者か、未だ決着を見ない。
緒方大和の配下には、予てから本城健吾(石黒英雄)と神谷俊輔(三浦翔平)の二人が付き、風間廉の配下には、予てから市村力哉(中間淳太)と倉木悟(桐山照史)の関西人二人が付いているが、両集団とも、それぞれ結束力は余り強くはなさそうだ。必然と云うべきか、緒方大和も風間廉も、何れも学級の全員を制圧し統率するだけの力はない。要するに頭なんかいないも同じ。これまでの二つの3年D組を熱くしたのは、学校内で差別され虐げられた者たちの反骨の心だったが、今回はそれさえも何となく冷めている。
ヤンクミは彼等をどのようにして熱くするのか。見ものだ。
ドラマ「ごくせん」の見所が時代劇風の戦闘場面にあることはよく知られるが、実のところ今宵の第一話の妙味は、むしろ戦闘のあとの、3年D組の全員を前にしたヤンクミの所謂「啖呵」にこそあった。事件の解決を見た夜から一夜明けて、猿渡教頭が体育館で3年D組に説教をした際、教頭の言葉に反発した彼等が、仲間を無実の罪で疑われて黙っていられるか!と猛抗議し、暴動みたいな状態が発生したところに、遅刻したヤンクミが緒方大和と風間廉を連れて到着し、他の教師たちの眼前、3年D組の全員に対し、おまえらの中に仲間のため立ち上がった奴が一人でもいたか?と叱った。これに先立つケンカの場面以上の興奮度と痛快感がここにあった。この第一話における実質的な戦闘場面がここにあり、ここから始まるのだ。
風間廉に関して見落とせないのは、放課後、市村力哉と倉木悟と夜遅くまで遊んだあと、さらに深夜遅くまで遊ぼうとする二人と別れて先に帰ったこと。二人は風間の付き合いの悪さに疑問を抱いていた。これが結束を固め切れない要因なのだろうが、問題は風間がそのまま帰宅したわけではなく、どこかで何かをしていたらしいこと。しかも、どこで何をしていたかについては、警察からアリバイを求められた際にも何も語ろうとはしなかったこと。何か深い事情がありそうだ。ヤンクミの訪ねた彼の家が、裕福な家庭の住まいには見えなかったことも関係あるかもしれない。今後の伏線であり得る。
世に「ごくせん」の面白さを時代劇「水戸黄門」に譬える見解がある。時代劇に譬えるのは適切だが、「水戸黄門」を例に出すのは私見では半分しか妥当ではないと考える。「ごくせん」に譬えられるべきは私見ではむしろ「暴れん坊将軍」であると考えている。
世に云われる「ごくせん」と「水戸黄門」との類比性は、何時も放送時間中の定まった時刻に、主人公の最大の活躍の場、痛めつけられた者たちを救出する場が設定されてある点にあるだろう。しかし「水戸黄門」の神髄は、縮緬問屋の御隠居と思われていた人物の正体が実は「天下の副将軍」、御三家の一、水戸中納言家の徳川光圀であったことの認知にこそあり、ゆえに彼が自らの正体を明かす場面が最大の興奮を生じる。ゆえにそれは戦闘場面のあとに来る。将軍家の権威がどんな腕力、暴力にも勝る最大の力であることを前提にしているのだ。
だが、「ごくせん」の主人公ヤンクミは、戦闘の前に先ずは名乗る。「わたしは、その生徒の先生だ」と。しかし、この名乗りは何の威力をも発揮しない。むしろ笑いものにされるだけだ。「先生が何をしに来たんだ?」と。ヤンクミの真の力は肩書にはなく、実力にある。生徒への愛と教育への情熱を伴った無敵の腕力、戦闘力で、大勢の悪い奴等を一人で薙ぎ倒してみせるところにこそ、ヤンクミの魅力がある。これに近いものがあるのは「水戸黄門」よりは「暴れん坊将軍」ではないか。暴れん坊の将軍とは水戸黄門の時代よりも少しあとの、八代将軍徳川吉宗だ。敵地に一人で乗り込んでゆく彼は、戦闘に先立ち、悪人たちの前で「余の顔を忘れたか?」と云って、自身の正体が日本国大君=徳川将軍であることを告げる。これは恐らくは警告だ。彼等の悪行の全貌を将軍が把握した今となってもなお、悔い改めるつもりはないのか?と。しかるに悪人どもは逆に開き直る。恐れ多くも将軍様の名を騙る不届き者を、成敗してやる!と云って大勢で斬りかかる。そこから戦闘が始まるのだ。もっとも「暴れん坊将軍」には妙な特徴がある。大勢の雑魚どもを斬り捨てた将軍は、悪人どもの頭である巨悪を倒すとき、自らは手を下すことなく、支援に駆け付けた配下の者に「成敗!」と命令して止めを刺させる。将軍が手を下すにも値しない無価値な奴め!と断罪する意図なのか、それとも将軍としての威厳を最後に示したものか知らないが、大戦闘の結末としては少々寂しくカタルシスを欠く。この点で、「ごくせん」におけるヤンクミの戦闘場面にはもっと素直な興奮があると云えるかもしれない。
ちなみに(関係ない話になるが)、ヤンクミ役を演じる仲間由紀恵のもう一つの当たり役、テレヴィドラマ「トリック」の主人公、山田奈緒子が時代劇の愛好家で、ことに「暴れん坊将軍」のファンであるのは有名な話だ。
テレヴィドラマ「ごくせん」におけるこうした戦闘場面に際しての大きな見所の一つは、不良ではあっても心根の優しい男子高校生が、救い難く悪い連中に殴られ蹴られてボロボロになっているところに、何時もの冴えない姿から一転、美しく凛々しい正体を現したヤンクミが助けに来る瞬間にこそあり、ここでの興奮度を最大限に高める要素として、散々殴られて気を失いそうに(現今の流行語に所謂「フルボッコ」に)されている男子が、そのような目に遭うことの相応しくないような、愛らしさと美しさを、この暴力の場の只中にこそ強く感じさせるのでなければならない。この点に関しては第一作目の沢田慎にしても、第二作目における小田切竜と矢吹隼人にしても実に上手い人選だったと思う。彼等が実際のところ美少年であるかどうかは大した問題ではない。問題なのは不良高校生の格好をして美しく映えるかどうか、そして殴られ蹴られてボロボロになったときにさらに美しさを発揮できるかどうかなのだ。彼等はその点において比類ない優秀な人材だったわけで、今作の不安な要素がこの点にあるのは正直なところだ。今宵の第一話において暴力と救出の対象となった緒方大和は今一つ(というか全然)映えなかったので、風間廉に期待してゆこう。
大勢の生徒たちの中で最も目立っていたのは、私的には、高橋公人(戸谷公人)。よく目立つ位置に上手く身を置いていた気がする。白い服が目立つという面もある。注目株の原明大(真山明大)についても姿を見付けることができた。松方広(矢崎広)も。寺内京介(浜尾京介)と田中麻聖(中山麻聖)は意外に目立つ顔立ちだと思った。