旅行記四

連休の前半の四日目(最終日)。旅行記四。
昨日までの三日間に五箇所の美術館の展覧会を観照して十冊近い展覧会図録を購入し、とても抱え切れない状態と化した。何時ものことだ。それらを自宅へ発送すべくホテルの受付で宅配便の依頼を済ませ、荷物をまとめた上でホテルを退出したのは午前十時半頃だった。梅田駅に近いホテルであるからJR大阪駅も近い。そのまま帰ってもよかったのだが、折角なので少し粘ることに決し、天王寺駅へ移動。大阪市立美術館で開催中の「聖徳太子ゆかりの名宝展」を観照した。見終えたあと新大阪駅へ移動し、岡山駅を経由して松山へ帰った。道中には車中で大いに睡眠を取るつもりだったのに殆ど寝ることができなかった。仕方なく昨日購入したばかりの小島毅「近代日本の陽明学」を読んでいたところ、かなり面白くて一気に読み進み、JR松山駅に到着するまでに殆ど読み終えてしまった。
幕末の日本における陽明学国学と水戸学の間には奇妙な親近性がありはしないか?というのを予て感じていたのだが、小島毅「近代日本の陽明学」を読んだ今、その感覚は妥当だったと思うに至った。また、戦前の日本における左翼と右翼との間の距離感の奇妙な捉え難さも、陽明学イデオロギーを媒介させることで理解できそうな気がしてきた。もっと云えば、「朱子学の論理そのものに起因する封建制秩序の内部崩壊」という政治学説についても「朱子学を基盤としつつ密かに蔓延した陽明学による朱子学の内部崩壊」という契機を媒介項とすることで解し易くなるかもしれない。近代日本における自我や個人主義の問題にも、陽明学の契機を想定できるかもしれない。

近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)
灰燼 かのように―森鴎外全集〈3〉 (ちくま文庫)
普遍論争 近代の源流としての

近代の超克 (冨山房百科文庫 23)
ベルクソン~人は過去の奴隷なのだろうか (シリーズ・哲学のエッセンス)/ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか (シリーズ・哲学のエッセンス)/スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか (シリーズ・哲学のエッセンス)/クリプキ―ことばは意味をもてるか (シリーズ・哲学のエッセンス)/カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)/アウグスティヌス <私>のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)/ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法 (シリーズ・哲学のエッセンス)/プラトン 哲学者とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)