渡る世間は鬼ばかり第十話

TBS系。橋田寿賀子ドラマ「橋田寿賀子ドラマ渡る世間は鬼ばかり」。
作(脚本):橋田寿賀子。音楽:羽田健太郎。ナレーション:石坂浩二。演出:竹之下寛次。プロデューサー:石井ふく子。第九部第十話。
小島五月(泉ピン子)と小島眞(えなりかずき)との間の、急転直下の和解。だが、ここにおいては両名ともに余りにも見苦しかったと云わざるを得ない。「ダイヤモンドに目がくれて乗ってはならぬ玉の輿」とは名作「金色夜叉」を歌にしたものだが、今回の五月の行動は、当人たちがどんなに誤魔化し美化しようとも、小島勇(角野卓造)が容赦なく評した通り大井貴子(清水由紀)からの高価な贈物に目が眩んだ挙句の心変わりに過ぎない。また、先週ここに「眞には、活力はなくとも意地だけはある」と書いてしまったが、この前言を撤回せざるを得ない。彼には意地さえもなかった。
とはいえ両名のこの完全な変わり身の早さが両名の精神に平安をもたらし得るのであれば、その効果を敢えて否定する必要はなかろう。なぜなら眞と大井家との関係が眞を不幸にすると考えるだけの材料は、今のところ得られていないからだ。
しかるに田口愛(吉村涼)は両名を罵った。必ずや悪しき結果を招くだろうと信じているようだが、根拠はあるのだろうか。この物語の中では例えば、野田弥生(長山藍子)は自身の子たちの恋の相手について強い疑念を抱き、交際や結婚について強硬に反対していたが、反対の理由は親としての直観にあり、その読みは意外な程に的中した。しかし田口愛には直観を支えるだけの人生経験も思考力もないし、何より当人こそは己の人生において過ちばかり繰り返してきたわけで、云うことに何らの説得力もない。
ともあれ、現在の小島家ラーメン店「幸楽」における田口愛の位置がどこにあり役割が何であるかは明白だ。米国へ移転した小島キミ(赤木春恵)に替わり家政を仕切るところ、そして小島キミに替わり家族を責めることにある。五月にとっての鬼のような姑の役割を、意外にも五月の娘が継承したのだと見るほかない。