おせん第九話

日本テレビ系。ドラマ「おせん」。
原作:きくち正太。脚本:神ひとえ。音楽:菅野祐悟。協力プロデューサー:山口雅俊(ヒント)。プロデューサー:櫨山裕子三上絵里子/内山雅博(オフィスクレッシェンド)。制作協力:オフィスクレッシェンド。演出:南雲聖一。第九話。
二百年続く老舗の料亭「壱升庵」の女将「おせん」こと半田仙(蒼井優)の味覚を幼時から形作ってきたものの一つ、「本枯節」は焼津にある鰹節工場ヤマジョウにおいて制作されてきたもの。しかるに職人として本枯節の味を守り続けてきた同社の社長(夏八木勲)は、商事会社イェンプールから持ちかけられた買収の話に応じるに伴い、その製造の中止を決意した。イェンプールが買収の話を持ちかけたのは、社内で「カツブシ王子」とも称される程に鰹節に詳しい矢田守(加藤雅也)からの提案を採用してのことだった。あろうことか、この矢田守こそは、かつてヤマジョウ社長にとって容易には超えることのできなかったライヴァル、「伝説の天才鰹節職人」、藤坂二郎の子息だった。そのような人物がどうして本枯節を消滅させるようなことを画策するのだろうか?恐らく理由は単純で、彼自身が述べていた通り、「本枯節は藤坂二郎で終わった」と思いたいからだろう。またそう思いたくなる現状があるからでもあるだろう。本来なら到底「本枯節」と云うには値しないような中途半端な贋物が「本枯節」の名を冠して世に流通し、誰もそのことに気付かず贋物を有り難がるような現状を根絶するためには、いっそのこと、本枯節それ自体を根絶してしまった方がよい!と考えたのではないだろうか。
実際、これまで壱升庵にヤマジョウの本枯節を取り次いでいた乾物屋の大将(久保酎吉)の子息(山中聡)も、得意客の誰一人として本枯節の味なんか本当には判ってはいないこと、ゆえに安い「荒節」を「本枯節」と称して(=偽装して)販売しても誰も気付きはしないことを笑っていた。高級料亭の代名詞のような名店だったはずの吉兆でも残飯を客に出していたらしいから、多分、その通りなのだろう。本当には本物とは云えないような中途半端なものをわざわざ手作りで時間かけて作る位なら、むしろ機械で大量生産して品質を一定に保つ方が、大勢の消費者に対して、どれだけ誠実であるか判らない。大衆社会における文化の貧困の現状を冷徹に見詰めて商売人として合理的に考えるなら、そのような結論が出て当然だろう。
本物の判る者がいないなら、本物を求める者もいないに等しい。
先週の第八話において、一部の者しか知らないはずの壱升庵のマカナイ料理を、料理雑誌の記者が迂闊にもブログ上で紹介してしまったのを機に、大勢の客が殺到して皆そればかりを注文して帰っていったことがあった。このこともまた、都会の中の仙境とも云うべき壱升庵のような店にとって日本の現代がいかに過酷な条件であるかを物語っていよう。ヤマジョウ社長を説得すべく焼津を訪ねた半田仙が、夜、海に向かって佇んでいたのを見て、従者として同行していた「よっちゃんさん」こと江崎ヨシ夫(内博貴)が、何気なく、何か見えるのか?と話しかけたとき、半田仙は「何も見えねえでやんすよ。これだけ暗けりゃ、右も左も歩けねえでやんすよ」と答えた。仙境のような壱升庵をめぐる今日の状況が暗闇でしかないことを、冷静に表現している。
半田仙を叱咤激励し、打開に向け、無理をしてでも何とか立ち上がるよう呼びかけた江崎ヨシ夫に対し、竹田留吉(向井理)は怒った。彼の父もまた、かつては鹿児島で本枯節を作っていた鰹節職人であり、彼は父を「日本一」の職人として誇っていて、しかし家族や従業員の生活のため、父が泣く泣く、工場を機械化することを受け入れ、職人としての道を捨てざるを得なかったこと知っていたからだった。過去からの遺産を捨ててしまってよいのか?という問いは既に第五話においても提起されていた。だが、今回の再提起には別の重みがある。有閑階級であれば多少の我慢だけが必要だろうが、そうではない場合、関係者全員の生命をも犠牲にしなければならないからだ。