土曜ドラマ監査法人第四話

NHK土曜ドラマ監査法人」。
第四話「崩壊の序曲」。脚本:小林雄次。演出:柳川強。
先週までは「ごくせん」を録画しつつ見ていたが、それが先週で終了したので、今宵、不図これを見始めたところ余りにも迫力があって面白くて見入ってしまった。と云うか「ごくせん」と違う時間帯に放送してくれていれば第一話から見ることもできたのに。誠に無念。
このドラマ「監査法人」は全六話から成るらしい。第一話から第三話までの三話を見ていないということは、物語の半分を見ていないということだ。ゆえにその内容、ことに物語の展開については、殆ど語りようがない。それでも、展開の力強さと厚み、凄み、そしてその物語の含意としての、今日の日本において生じつつある事態についての(このドラマの制作者が問題提起しようとしている)一つの歴史的な展望、解釈の意味深さは、伝わってくる気がする。
露頭と云うべきは、云うまでもなく、ジャパン監査法人理事長の篠原勇蔵(橋爪功)が東京地方検察庁特別捜査部の取調室で、三十八歳の検察官(堀部圭亮)に対して発した問いにある。公認会計士とクライアントとの間の絶妙な信頼関係こそが、日本の経済成長、繁栄を支えてきたということを、考えたこともないのかね?という問いだ。
日本社会の「国際化」のため、国際標準(グローバル・スタンダード)に合わせなければならぬ!ということは、ここ約十年間というもの、政界や言論界において、あたかも至高の正義であるかのようにして、盛んに喧伝されているが、思えば、そもそも予て日本では多くの人々が「日本の常識、世界の非常識」という竹村健一の言を自嘲気味に繰り返していたわけなのだ。それでもなお、好景気の時代には半ば誇らしげに語られてもいた日本的な経営というものは、不景気に陥るや、あたかも諸悪の根源であるかのように攻撃され、そうした中で日本的な経営を徹底的に粉砕すべく「構造改革」が推進された。それを国民の大半が(恐らくは意味も解らぬまま)支持してきた。
このドラマにおいて篠原理事長の追放を断行したジャパン監査法人の厳格監査主義者、小野寺直人(豊原功補)は、実に、時代を象徴するような構造改革派であると云える。彼は、構造改革の徹底推進を図る財政監督庁検査局長(利重剛)等と結託し、旧時代の日本的経営、高度経済成長時代の権化のような老人を葬り去ることに成功しつつある。だが、国際標準(グローバル・スタンダード)と云われているものは本当に全世界共通の標準なのだろうか。アメリカにとって都合のよい標準に他ならないということはないのか。何れにせよ、日本経済の成長と安定を支えてきた思考や手法が一掃され、企業の文化の形が骨抜きにされたとき、篠原理事長の云うように、日本の経済はその成長を完全に止めるのかもしれない。それは本当に「正義」であり得るのだろうか。
主人公の、若き公認会計士、若杉健司(塚本高史)には井上涼(阿部サダヲ)という友人がいる。この人物、学生をしながら企業を経営している。彼の企業は急成長を遂げつつある。バブル景気の恩恵を存分には受けないまま就職氷河期に辛酸を舐めた彼は、かつて散々よい思いをしてきた連中が没落してゆくのを痛快に思い、ついに己等の時代が到来したことを感じている。彼は、「同志」若杉健司の所属するジャパン監査法人が東都銀行を厳格監査によって倒産に追い込んだことを快挙として心から喜び、序でに、当のジャパン監査法人にも強制捜査が入ったことをも喜んだ。旧時代の連中が一掃されることを、己等の時代の到来として受け止めているのだ。
だが、アイディア勝負による企業の急成長というのは、むしろ旧時代の企業の得意分野ではないのか。高度経済成長時代の財界人の成功物語の類は全てそうしたものだ。少なくとも小野寺が推進しつつあり若杉も巻き込まれつつある厳格な監査の文化を「新時代」と考えるなら、井上涼の考える「俺たちの時代」とは必ずしも一致するものではない。そのズレが見えていない。彼は現代の日本「大衆」の権化のような人物であると云えるかもしれない。