土曜ドラマ監査法人最終回

NHK土曜ドラマ監査法人」。
第六話=最終回「会社、救えますか」。脚本:小林雄次。演出:渡辺一貴。
漸く釈放された元ジャパン監査法人理事長の篠原勇蔵(橋爪功)が若杉健司(塚本高史)相手に語ったオイルショック時代の話は、単なる古き良き時代の思い出に過ぎないわけではない。あの時代、高度経済成長が終焉し不況が訪れた中で企業の経営者たちは従業員を雇用し続けたのみか給与を上げて待遇改善に努めた。平成の不況において各企業が「日本的経営」の代名詞でさえあった年功序列と終身雇用を廃し「リストラ」と称して多くの従業員を解雇したのとは全く逆の道を取った。なぜか。どうしてそのような無謀な手段を採って、それでいて不況を乗り切ることができたのか。結局、企業が一時的な不利益を被ってでも従業員の生活を守り、さらには従業員の意欲を高めることこそが、やがては企業の業績を上昇させることに繋がり、さらには社会の全体を景気よくするための最善の策であると判断できたからだろう。ここには会計の視点を超えた経済学的な思想がある。
このドラマにおいて「会計士考証」を務める公認会計士山田真哉は、著書「食い逃げされてもバイトは雇うな」の続編「「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い」において、会計の視点では世界の半分しか見ることができないこと、会計の視点からしか物事を見ない短絡的な考えでは経営上の判断を誤ることになることを述べている。
篠原勇蔵が、事件に関する全ての事実を認めた上で、それでもなお罪を断じて認めないのは、純粋に会計的な視点からあらゆる経済行為を斬り捨ててゆく思考の危険性に対し、会計士としての己のこれまでの人生をかけて異論を唱えたいからに他ならない。
とはいえ、世界標準(グローバルスタンダード)に則るものとしての厳格監査を己の信念とし、己の人生観と一致させてもいる若き公認会計士、若杉健司にとって、篠原勇蔵の信念を己の信念とすることはできない。一時の不正を見逃した上で長期的に解決を図る手法は景気に健全な波があった時代には問題なくとも、今日のように不健全なまでの長期間の安定の中で実際には殆ど成長のない時代には、解決の先送りが事態の悪化にしか繋がらないということも現実の問題としてある。その意味で、律山悟(うじきつよし)に招かれて自動車部品会社「尾張部品」の顧問会計士に就任した若杉健司が、同社会長の武田勝次(大滝秀治)の不正を見破りつつも、それが従業員たちを守るための判断であることを認め、むしろ同じ目的のためにこそ、不正を正し、問題を解決すべく、ともに尽力したいと約束したのは、彼なりの新たな信念の始まりの宣言だったのだ。
会社は誰のものか?という問いは近年、盛んに発せられた。かつて会社は経営者と従業員のものであると信じられていたが、近年は株主のものであると強調される傾向にあった。会計至上主義を支えるのはその思考だろうが、それが正しいはずはない。それだけではないはずだ。尾張部品の律山や武田会長が述べたように、工場で働いている大勢の職人たちの精密な技術こそが日本企業の力と躍進を支えてきたのであり、延いては日本経済の強さの源泉だったのだとすれば、そうした従業員たちを簡単に「リストラ」対象にしてしまえるような会社の経営方針が正しいはずはないからだ。それはやがては会社それ自体を弱体化させるばかりか、社会の全体をも救いのない貧困に陥らせる上、そこからの回復をも不可能にしてしまうだろう。それは株主にとっても望ましくない事態であるに相違ない。短期の収支ばかりを考えて長期の経営を見失えば全てを失いかねない。

「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字〈下〉 (光文社新書)
食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉 (光文社新書)
さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)