日記/道後秋の大祭の宵宮

十八世紀ドイツの音楽家テレマンの協奏曲集を聴いて昼四時まで過ごしたあと、近所にあるセキ美術館へ立ち寄った。小磯良平「聖母子」という魅力的な作品があったが、新収蔵品だろうか。昭和初期の松山の地図の復刻版を頂戴して退出。五時半から約二十五分間スポーツクラブで鍛えたあと、夕食を摂るため電車に乗って大街道へ。
行けば大街道(旧「唐人町」)は大混雑。そうだ。今日は道後と城下の秋の大祭の初日、宵宮の日だったのだ。千舟町の食堂へ行くべく南下しようとしたものの、薬店の辺で立ち往生。眼前には溝辺大神輿あり、その北には湯之町大神輿、南には北小唐人大神輿。道後村・湯之町・溝辺・小唐人・大唐人・北小唐人・持田連合・築山の「八町」に、新巴講・長町・立花・小栗・新小栗・日之出町の「六町」を加えた十四町による「総練」が、例年は千舟町通で行われるところ、今年は生憎の雨天のため、大街道のアーケイド商店街で挙行されていたのか。四国一番の繁華街である大街道の中央は、大神輿の各町の衆と見物の群衆と通行人の大群衆で埋め尽くされ、殆ど身動きも取れない有様。暫くは見物していたが、通行の流れができたのを見出してそこから南へ抜けた。少々不可解だったのは、各町の大神輿が「総練」で大いに盛り上がっていたとき立花大神輿だけは大街道の千舟町側の出口に留まっていたこと。どういうことだろうか。ともあれ千舟町の食堂で予定通り夕食を済ませてから再び大街道へ。六町の大神輿は大街道にいて、立花大神輿は漸く大街道を練り歩いていたが、八町会の大神輿は既に道後温泉駅前へ向けて出立したあとだった。伊予鉄道の電車で道後へ帰れば、なるほど、南町の一帯に八町の大神輿と神輿守の大軍勢が滞留、休憩していた。
道後温泉駅を降りたあと、折角だから祭を見物すべしと思い、道後湯之町の道後温泉商店街ハイカラ通の入口、放生園の側に布陣。八町の大神輿の揃い踏みの際には眼前の放生園の前に溝辺大神輿が来て背後の商店街の中には湯之町大神輿が来るという位置になる。
思えば吾がここ道後に居住し始めたのは一年前の秋の大祭の只中。道後湯之町のマンションの十一階に住まうか道後村のマンションの七階に住まうか悩んだ末に家賃の月額の一万円安い後者に決めたのだったが、仮にあのとき前者に決めていたら今頃は自宅のバルコニーから八町の大神輿の鉢合わせの全てを眺めることができたはずなのだ。一寸悔しい。この道後村へ移住する前までは旧「小唐人町」の東端に居住していたのだった。
道後温泉駅前の馬場における宮入前の四度の鉢合わせの様子については殆ど見ることができず群衆の彼方に微かに窺われる程度だったが、吾が居住地にあたる道後村の大神輿は、どこか(どこだったか憶えていない)の大神輿に圧勝したらしい。道後村の勝利の報が伝わってきた瞬間、湯之町の神輿守の軍勢が盛大に歓声を上げたのは、道後村と湯之町の今日の関係を感じさせて、極めて面白かった。もともと湯之町は道後村に属していたが、明治前期の町村制の成立時、道後温泉を中心とする繁華街だけで村から独立して町となったのだ。しかし元来が同じ地域だったわけだし、現在は改めて一体化し同盟関係にあるようだ。なお、湯之町大神輿もどこかの大神輿に勝利。宮入に際し各町の大神輿は道後温泉商店街へ入り、重要文化財道後温泉本館」の前を経由してそれぞれ伊佐爾波神社・湯神社へ宮入をしたもののようだが、商店街ハイカラ通の入口に布陣した湯之町大神輿の神輿守衆は道後村大神輿の通行のときだけ盛大な拍手をしていて、ここでもやはり道後二町の盟友関係が示されていた。実に興味深かった。