新番組=中島裕翔主演スクラップ・ティーチャー第一話

今宵からの新番組。
日本テレビ系。土曜ドラマ「スクラップ・ティーチャー 教師再生」。
脚本:水橋文美江及川拓郎。音楽:吉川慶&Audio Highs。主題歌:Hey!Say!JUMP「真夜中のシャドーボーイ」。プロデューサー:櫨山裕子&内山雅博。制作協力:オフィスクレッシェンド。演出:南雲聖一。第一話。
杉虎之助(上地雄輔)と久坂秀三郎(中島裕翔)の二人が励まし合う場面が実によかった。過酷な現実に挫けそうな大人と、過酷な現実に挫けないように頑張ろうとしている少年の交流を、よく演じていた。中島裕翔の、あっさりとしていて弱々しそうでもある容姿が、この役柄に合っている。彼の出演作としては「エンジン」「野ブタ。をプロデュース」「プリマダム」「先生はエライ」を見てきたが、どんどん成長して、よくなってきている。
松尾悟史(向井理)が一寸嫌な奴というか悪い奴だったのも注目に値しよう。どう見ても善人にしか見えない顔の向井理が、まさか悪役を演じるとは。大胆な配役だ。今後の展開に大いに期待しなければならない。
謎の転校生三人組、高杉東一(山田涼介)と吉田栄太郎(知念侑李)と入江杉蔵(有岡大貴)は今のところ全く可愛げがないので、知念侑李の愛らしさが活かされない。今後に期待。学校の職員室の場面では、理科の教員の柄谷信人(平方元基)が一際目を惹いた。
思っていたよりも面白かったし、今後さらに面白くなりそうに思われたので、次週以降も大いに楽しみにしてゆこうとは思う。だが、先ずは一点、苦言を呈しておかなければならないことがある。このドラマの制作者は、「公立中学校の統廃合」ということの意味を全く理解していないのではないのか?という苦言だ。
このドラマの舞台は「城東区第八中学校」。そこが「統廃合」によって消滅すると決定されたことから、そこで働く教職員たちの間に無気力の状態が発生し、やがてはそれが生徒たちにまで波及して学校の全体が荒廃したところに物語が始まるわけで、まさしく「統廃合」=学校再編の問題こそが全ての始まりであるわけなのだが、ここの表現が余りにも杜撰である所為で物語の設定が説得力を欠いてしまっている。私立学校の存廃は単なる経営(経済)の問題だが、公立学校の存廃はそれ以上に行政(政治)の問題であることを忘れてはならない。区立学校の統廃合を決定するに際しては多分、区の教育長の設置する専門の委員会による調査検討の上、区の定例教育委員会の議決を経て、区議会の承認を得る必要があるものと思われる。教育委員会と議会は非公開の会合ではないから、当然その議論の過程においては区民にも反応を示す機会がある。そもそも区議会議員は区民の代表者であり区民の利益の代弁者であるわけで、要するに、学校再編が区民の知らぬ間に密室で決定されることはあり得ないのだ。従って、「城東区第八中学校」の廃校が唐突に公表されるということはあり得ない。
加えるに、区立学校の廃止が決まったとしても教職員が自暴自棄になる必要はない。なぜなら彼等は区の教育委員会の教員ではあるが、その人事権は東京都教育委員会にある以上、たとえ城東区に中学校がなくなったとしても都内の別の区や市町村の中学校に異動することもできるはずだからだ。だから、統廃合が決まるや教職員たちが授業よりも職探しや金儲けに走り始める…というのは、劇中の描写としては面白いか知らないが、余りにもあり得ない話であると云わざるを得ない。
このような苦言を呈すれば直ちに「フィクションにリアリティを求めても仕方なかろう!」との反論が来るだろうが、そのような論こそ、リアリティもフィクションも理解していない者の戯言に過ぎない。フィクションが成立するための条件はその形式と質料に相応しいリアリティに他ならないからだ。古代ギリシアの哲学者アリストテレースが述べるように、詩とは、必然性の見えない現実を描くことではなく、必然性の見える非現実を描くことであると云わなければならない(peri poietikes,1451a36-38)。