渡る世間は鬼ばかり第二十八話

TBS系。橋田寿賀子ドラマ「橋田寿賀子ドラマ渡る世間は鬼ばかり」。
作(脚本):橋田寿賀子。音楽:羽田健太郎。ナレーション:石坂浩二。演出:竹之下寛次。プロデューサー:石井ふく子。第九部第二十八話。
野田弥生(長山藍子)&野田良(前田吟)の夫妻は、失踪中の長女あかりの子である野田勇気(渡邉奏人)と、家出中の長男の嫁である野田佐枝(馬渕英俚可)とその子の野田良武(吉田理恩)とを伴って、弥生の父である岡倉大吉(宇津井健)の経営する高級料理店「岡倉」に来た。佐枝の誕生日を祝うために他ならない。だが、ここで気になることが二点。
第一点。
良は、何時ものように、野田家の現状を「他人同士が身を寄せ合って生きている」と形容した上で、本当の家族よりも幸福な家族にさえなり得ていることを喜んでいたが、果たして良武と勇気はそれをどのように受け止めているのだろうか?という点。
勇気は良の長女の子であり、良武は良の長男の子であるから、従兄妹でこそあれ兄弟ではないが、それを「他人同士」と述べてしまってよいかどうか。また、佐枝はもともとは野田家の者ではなかったとはいえ、良と弥生の長男の嫁であるのだから、「嫁なんて所詮は他人」といったような類の言い草を抜きにすれば、今は形式上「他人」とは云えないはずだ。これを要するに、良武と勇気にとって、「他人同士で身を寄せ合っている」という形容は理解し切れないものではないだろうか。
そもそも、この「他人同士」という形容は実のところ、良武と野田家との関係に関する重大な秘密を前提しているのだ。良武は佐枝の子でこそあれ元来は野田武志(岩渕健)の子ではなく、佐枝と武志との結婚に伴い、武志の子になったに過ぎない。もし良武が佐枝と武志との間に生まれた子であったなら、たとえ佐枝と武志とが離婚したとしてもなお良武が良と弥生の孫である事実は揺るがないし、良武が野田家の一員である限り、良武の母である佐枝も野田家との繋がりを失いはしないかもしれない。だが、実際には、良武と武志との間には間接の繋がりしかないわけだから、もし武志と佐枝とが離婚してその唯一の繋がりが断たれるようなことにでもなれば良武は野田家の孫ではなくなり、良武の母である佐枝も野田家との繋がりを失うだろう。
良も弥生も佐枝もそのことを踏まえて「他人同士」という言を理解しているわけだが、良武と勇気はそのことを知らない。知らせてもいない。佐枝は、良武が実は武志の子ではないという事実を良武には教えていないし、良と弥生も勇気にはそのことを教えていない。それなのに、どういうわけか、良はそのことを前提したような「他人同士が身を寄せ合って」の形容を、良武と勇気の前でも、好んで口にするのだ。不可解な行動だ。
何から何まで台詞の中で説明し尽くさないではいない橋田寿賀子の作風が生じた理不尽であると評せざるを得ない。
第二点。
良武と勇気は、佐枝の誕生日プレゼントとして携帯用の音楽プレイヤー(所謂「iPod」)を贈った。それには多量の音楽データが既に内蔵されてあるようだが、誰がどのようにして入れたのだろうか。野田家には何時の間にパソコンが設置されたのだろうか?という点。データをどこから入手したのか?どのような方針に基づいて選曲したのか?等の疑問も関連して生じてこよう。