井上章一編の性欲の文化史第一巻

井上章一編『性欲の文化史1』(二〇〇八年十月・講談社)という論文集を読んだが、実に興味深い論考が多かった。
例えば、澁谷和美「性教育はなぜ男子学生に禁欲を説いたか」。明治以降の日本が近代国家として男子の国民に求めた「男らしさ」には勤勉と絶倫の二面性があり、両面を両立させるためには学生時代の男子に対しては一時的な性的抑制を強いる必要があったことが論じられている。そして、男子学生に性的抑制を求める性教育言説において、男子の禁欲の難しさを容認した上で、むしろ生理学的知識を開示し、或いは早期の結婚を推奨しようという論と、逆に禁欲それ自体を青少年の倫理として要請すべきであるという論との間の論争があったこと等が実証されている。戦前の性教育における最大の課題は「花柳病」の予防にあったわけだが、これをエイズ予防に置き換えれば現代にも少々似たような論争があるのかもしれないことに気付かされよう。
三橋順子「女装男娼のテクニックとセクシュアリティ」は、主に昭和戦後の女装の男娼について具体的に描写し分析しつつ、男娼として生きることを選択せざるを得なかった「女装者」が、男とも女ともゲイとも別の、異性愛者であることが論証されている。論述の過程では、商売としての男娼業について、女性街娼との競合等の条件も考慮した経済学を展開していて深く考えさせる内容がある。
唐権「日本女性は不淫不妬?」では、中国の文人が日本女性をどのように記述してきたかを魏志倭人伝の時代から明代・清代まで回顧しているが、これは彼等文人の女性観を映し出すものでもあれば日本観を映し出すものでもあるし、また、文人の知のあり方それ自体をも史的な変遷の中で観察することでもあり得よう。
西村大志「「人体模倣」における生と死と性」では、現代のロボットやマネキン、ラヴドール、球体関節人形等を論じるにあたり、所謂「不気味の谷」理論を鮮やかに用いている。人間型ロボットは人間の容姿との類似性を高めるに連れて人間にとっての親和感をも高める(生きているように見えてくる)が、類似性が一定の段階に達するや、急激に親和感を暴落させる(死んでいるように見えてくる)というのが「不気味の谷」説の基本であるようだが、これは美術史におけるヌード表現(人体模倣)の変化を分析する際にも極めて有効な道具ではないかと思われる。また、この論考では現代の批評言説に頻出する概念「萌え」「癒し」「かわいい」における性欲の契機の濃厚な内部化とその隠蔽についても触れ、人体模倣物を制作する現場における「不気味の谷」回避の意味の二面性をも明らかにしてみせたのが実に興味深い。
しかし何と云っても面白いのは、編者の井上章一が「あとがき」に記した日本文学研究のユダヤ人による「日本文学を研究する外国人は女かゲイかユダヤ系だけ」という一仮説。古代ギリシアの陶器の絵をフェミニストの視点から分析した研究で知られる古典学者クールズは「古代ギリシアについて研究している男性の大半がゲイ」という仮説を述べて批判されたことがあるが、日本文学・日本文化の何がゲイを惹き付けるのかは古代ギリシアの場合の解り易さに比較して、少なくとも日本人にとっては必ずしも解り易くはない気がする。同じ「あとがき」には、「リポビタンDテレヴィCMが米国人のゲイの日本研究者に対して性的な意味で強烈な印象を与えたという解り易い事例も効果的に挙げられているが、そうした例をもっと挙げることができるだろうか。この「あとがき」は極めて面白い問題を提起していると云える。

性欲の文化史 1 (講談社選書メチエ)
ファロスの王国―古代ギリシアの性の政治学〈1〉
ファロスの王国―古代ギリシアの性の政治学〈2〉